昼過ぎに起きる。リビングはあたたかな光が入ってくるので気持ちがいい。最近は暑くてしにそうになりながら起きることもなくなった(夏場は冷房をかけるが、春と秋のよく晴れた日はそういう危機感を覚えて起きる)。
とりあえずお湯を沸かして、昨日買ったクロックムッシュを温め直す。昔大船駅にあったカフェのクロックムッシュがおいしくて、駅に行くたびに食べていた。小さなハッシュドポテトもついてくるのがうれしかった。いつの間にか店が変わり、今もカフェにはなっているが、なんだか"現代人のためのカフェ"といった感じで殺伐としている。前のような井戸端会議や疲れた大人が唯一自分のためにつくる時間を守るような雰囲気はない。もちろんあのクロックムッシュも。また食べてみたくて、クロックムッシュを見つけるたびに買ってみるけど、やっぱりあの味じゃない。今日のクロックムッシュもそうだ。クロックムッシュには変わりないけれど、わたしの記憶の中の味ではない。あれはマスタードの味がほのかにした。
はちみつをたっぷり入れた紅茶を啜りながら、そんなことを想う。クロックムッシュを頬張りつつ、バルサミコ酢で食べるカッテージチーズとフルーツのサラダを、食べる。自分で作るのはめんどいなと感じる。
明日の準備をしなければならないこと、気が重い。明日は遠出するのである。過去のテキストも部屋からほじくり返さなければならない。別に持ってこいとは言われてないけど、たぶんあったほうがいいだろう。昔のノートどこだっけ。あ、その前に部屋の突っ張り棒が外れたんだった。直さなきゃ。突っ張り棒にかけてた服をクローゼットの前に移動させなきゃだから、クローゼットの前にかけてある服をしまわなきゃ。。。。。
肝心のテキストをほじくり返すのに2時間ほどかかった。その間に分かったことは、この部屋はリビングとは比べ物にならないくらい寒いということ。それだけで精神によくないということ。 クローゼットの中で1着ほとんど着ないコートにカビが生えていたということ。そのくらいこの部屋だけ時が止まったみたいだということ。この部屋がわたしの気持ちや身体の成長スピードに似合わず、とても小さいということ。いつまでも片付かない部屋は片付けられることでなくなる何かがあるのかもしれないということ。それをわたしは恐れているのかもしれないということ。
もともと引越しなかったわけではない中で引越しをしたあの頃のわたしはまだこの部屋で泣いているのかもしれないと思う。大人の、今のわたしは、頭ではすべて分かっているのだけど。
最近こころの支えをひとつ失ったようにして生きている。なんだか、浮遊する綿毛のように、どこに行くのかも、何がしたくて浮いているのかも、元は何であったのかも忘れそうな勢いで、からだに力が入らない。水の中で力を抜いた方がからだが浮いていくみたいに。すこし前のわたしは補助輪がありながらも、それでも自分は力強く漕いでいる感覚があった。だから、いつか補助輪がなくなったって、きっと自分の力で漕いでいけるって思っていた。そう信じられていた。けれど実際は補助輪がなくなると、よろける。感覚がおかしくなって、今までどうやって漕いできたのかわからなくなる。ゲシュタルト崩壊みたいに、何度も見てきた。見過ぎだ文字が崩れておかしくなるみたいに、慣れ親しんだ毎日が姿形はわからないのに、ちぐはぐだ。それに気づいているのも、かなしんでいるのも、わたしだけ。失ったものは大きい。わかっていた。けれど、わたしはわたしの信念を曲げられなかった。それは未来のあなたを救う行為でもあるはずだからだ。
ということでどっぷり人間に疲れて、どうぶつの森を今更始めた。子どもの頃にやっていたゲームを大人になってやると不思議な気持ちだけど、いちいちアクションがあるのにイライラして途中で放棄した過去のわたしは、確かに今もわたしの中で生きていると感じた。好きなだけ虫や魚を捕まえたら、好きなだけ服を買ったら、きっぱりやめるだろう。わたしはゲームをつづけることができない。
明日話す内容も手帳にまとめなきゃなのに、何もできずに22:30になった。低気圧で絶賛絶不調である。いつまでもつづくかのような頭痛とからだの重みは、かなしくも今わたしがちぐはぐのままでも生きていることを知らしめた。
どうか明日無事に終わりますように。
わたしがわたしを信じていますように。