うちの猫たちは仲が良くはない、と思います。
なんなら仲悪いなあー、と感じることのほうが多いくらいです。昨夜は夜中に猫たちが(というかふたりの猫が)大げんか大さわぎしていました。なんとなく、うちで暮らす猫たちは寄宿学校で生活をする子供たちみたいだなって思うときがあります。わたしという人間を含めたうえで、流れている空気の共同生活感。共存しています。共生しています。譲り合いの精神、はたぶんないので、譲ってばかりの人間と、誰ひとりなにも譲らずしょっちゅう喧嘩をする猫たち。
固定にしている最初の投稿にも書いたのですが、わたしは猫たちとあっさりめな関係を築いているので、お互いに自立している、と思っています。線引きなんて寂しいことはしていませんが、良いように言えば、猫たちが『猫として』することを尊重しています。そこは人間は関与しないから自由にやってね、という感じ。なので猫は猫たち同士で喧嘩をして、寄り添って、怒って、逃げて、くっついて、猫社会での折り合いをうまくつけて生きています。私の目にはそう見えます。人間がすべて、ではなくて、ある程度自立した振る舞い。甘えたいときにだけやってきて、こっちから近づくと激怒する子もいます。切ない。怖い。おもしろい。かわいい。
わたしの家は猫だらけですが、なにもかもが『猫中心』とはいかず、猫たち側の感覚も『人間中心』ではない、認識です。だけどお友達には「猫の家に人間が住んでいる」と表現されるくらいなので、外から見たら猫中心なのかもしれない。というか、もしかしたらこれは、わたしのこの暮らしかたは、正式に猫中心なんだろうか? 自信がなくなってきました。
猫の安全のためにコンロを塞いで元栓を閉めて、キッチンはもはやキッチンとは呼べません。冷蔵庫も裏側に入られると危険なので、リビングに運び出しています。クローゼットの上の段は猫が寝るので空っぽにしました。扉も外しています。下のハンガーパイプにも、なにひとつかけていません。仕切りを立てて、猫トイレのコーナーになっています。ゆいいつ現役稼働中の調理器具、オーブンレンジとオーブントースターはキッチンラックにまとめていますが、それがどこにあるかというと、お風呂場の前だったりします。こんなところで? と思えるその場所で料理をして、食事をしています。そして玄関を開けてすぐの、あの靴を脱ぎ着する場所。そこにキャスターつきの小さなハンガーラックを置いて、わたしの服と猫のごはんのストックを同居させています。リビング兼寝室にはひとりがけのソファがふたつ。オットマンがひとつ。人間用のベッドはなく、ソファがどちらも猫でふさがっていたら、わたしは床にラグを敷いて寝ます。ラグも猫のものなので、ごめんねこれだけ貸してね、と断りを入れて。
これはひょっとしなくても猫中心100パーセント? いやいや、猫は猫、人間は人間ですよ。そうだよね? なんだか雲行きがあやしいです。
この間うちに来たお友達に「ものが少ない」という感想もいただいたので、人間のものは少なめなんだと思います。家具や飾りや本の代わりに、猫がいます。テレビやゲームや音楽の代わりまでしてくれる猫。なんて便利な生きものなんでしょう。
嘘です。人間はユーチューブを楽しむし、パズルゲームもします。使用頻度は低いですが、最近プロジェクターも買いました。だからこの生活は猫中心ではない、と言い張る。
いま床にゴロンと横になっていたら、しろねこがひとりやってきました。わたしのお腹に頭を乗せて、静かに眠りはじめています。でも、甘えている、とはすこし違って、「今はここがいちばん良いからここにした」という顔をしています。ごろごろ音も聞こえません。どういうきもち? と不思議になりますが、気持ちよすぎず『ほどよい』のかな、と解釈することにしています。
その他の子たちは、あちらこちらに散らばっていて、寝ていたり、起きていたり。そのうちのふたりだけがお尻同士をくっつけています。お互い別々の方向を向いて、たまたまくつろぐために選んだのが同じ場所だった、くらいの雰囲気で。
とはいえ、うちの子たちも仲良くぴったりくっつくことがないわけではありません。しばらくご無沙汰していますが、これから、冬になるにつれて増えていくのを知っています。みんなそんなに仲良かったの? と驚くほどぎゅうぎゅうになって、ひとつの大きな塊になっていた去年の冬を思い出しました。愛おしかったな。今年はどうかな。部屋は暖かくととのえてあげるつもりですが、冬の風物詩としてのあの姿も楽しみです。
そうこうしている間に、さっきわたしのお腹で眠りかけていた子は、通りすがりの黄色い子をペンと叩いて、どこかへ行ってしまいました。
仲良くしなさい、とは言えません。仲良くするのは簡単じゃないよね、人間にはよくわかるよ、とこっそり共感するのみです。