2026年6月の日記

Dr.ギャップ
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公開:2026/7/5

6月5日の日記

夕飯に焼き魚を作りました。あとなめこと豆腐の味噌汁。焼き魚は久しぶりだったので浮かれて日記に書いています。

6月9日の日記

家族に送るための手紙に宛名を書くとき、その宛名の名字は自分の名字でもあったので、つまり自分の名前を書きかけなのと同じといえば同じ状態で、今日その最中に「自分のだけど違う」という感覚が唐突にやってきてびっくりしました。家族宛の手紙での名字なんて何回も書いてるのに。

6月11日の日記

もらいもののお茶をなんとなく淹れて(中国茶って何煎か飲めたはずだけど、これは何煎飲めるのかな)と確かめたら「10煎目以降も美味しく淹れることができます。」と出てきてOh...となりました。なにせもう夜も深いので、ここから10煎は飲めないなと……冷蔵庫に入れて翌日まで保管したりしつつ、10煎には至らなかったものの美味しくいただきました。

★飲んだお茶:雲南古樹白茶

https://shop.idle-moment.com/collections/white-tea/products/hanae


いただきもののマンゴーが美味しすぎて……!

甘い、ジューシー、とろける口当たり、そして何より香りがすごい!! ひと玉でも満足感がすごいです。すごーく甘いので、贅沢だなと思いつつマンゴーヨーグルトにして食べたりもしました。微糖のヨーグルトに入れてちょうどいいというすごさ。濃厚な甘みと香りのなかにもほのかに青臭さがあるのが“果物”という感じでそれもまた好きでした。ヘタ周辺にその風味がある気がします。

この日記を読んでマンゴーに興味を持ってくださった方が購入するなどして台湾マンゴーの売り上げにつながったらと思い、通販サイトを調べて値段に震えていますが、本当に美味しいので……夏のご贈答の機会などありましたらぜひ。

6月17日の日記

匿名ラジオ10周年記念イベントのチケット当選!! 文字通り三度目の正直なので感無量です。行くぞ~!!

これまでチケットを抽選で取るタイプの催しに参加する(したくなる)ことがほとんどなかったので、当落に一喜一憂するというのが初体験だったのですが、こんなに気分がキリキリするものなのかと。一度きりの抽選じゃなく、S席会員抽選→S席一般抽選→S席キャンセル分先着→A席会員抽選→A席一般抽選→……のように段階を踏むから“後がなくなっていく”感覚になってキリキリするのかなと思います。

当落発表の日にズーンと沈んでは「でもまだ次がある! 次こそ!」→「今回駄目だったんだから次もダメなのでは……?」とぐらぐらしていたりしたので、この気分の乱高下から解放されたという意味でも嬉しくあります。

7月と8月の締め切りをきちんと突破して晴れやかな気分でイベントに行くぞ!

6月18日の日記

「愛し方の探究は編集か?社会学者・中村香住さんと、クワロマンティックの実践について語らう」

クワロマンティック関連の読み物だ! しかも連載! ということでウキウキの日でした。

恋がわからない、クワロマンティック・デミセクシュアルを自認する編集部員・未来が、さまざまなセクシュアリティやリレーションシップを自認・実践している当事者を取材し、その探究の個人史に「編集感覚」を見出す連載「アンチ・ロマンティック・ラブ・イデオロギー」。

毎回異なるゲストと、現状の「セクシュアリティやリレーションシップの捉え方」や「パートナーや、パートナーを持たない場合はご自身や他者の愛し方」、そこに至るまでの探究について対話する。

vol.1は、編集部員・未来がクワロマンティックを自認するきっかけとなった論考『クワロマンティック宣言』の著者である、社会学者・中村香住さんを迎え、「レズビアン・クワロマンティックを自認するまでの探究」や「クワロマンティック当事者としての愛の実践」「セクシュアリティやリレーションシップの探究の意義」についてうかがった。

上は記事冒頭からの引用なのですが、「さまざまなセクシュアリティやリレーションシップを自認・実践している当事者を取材し」の部分を特に嬉しく感じました。

『いるよの話』を作ったときに思ったのですが、自分(恋愛がわからない)(恋愛ってなんだ?と思う)が恋愛のことを考えようとするとき、そしてまた自分にとって自然な「恋愛がわからない」感覚を「恋愛がわかる」誰かに伝えようとするとき、「恋愛がわかる」ひとの話も聞きたいなという気持ちがあります。だからこの連載が(よく見たら連載のテーマとしてクワロマンティックを掲げているわけではないのですが、)クワロマンティックやアロマンティックなど恋愛がなかったりわからなかったりピンとこなかったりする人たちだけではなく、いろんな人を取材の対象にしているのが嬉しかったのでした。

記事を読みながら思ったのは、自分は恋愛の外で(も?)特別な絆とかパートナーシップを特に求めてはいなくて、大切な人はいるけれど「友達」や「大事な友達」という言葉や捉え方ですんなりくる、そこに過不足や居心地の悪さを感じてはいないんだなあということでした。自分と恋愛がある人とを比較したときに(比較できるものでもないかもしれないけど)クワロマンティックやアロマンティック“ならでは”の感覚や実践だと感じるものはない気がするなと。

でもそれをたとえば「一人で生きていく」と表現するのは何か違う気もするんだよな……と思います。パートナーシップとか特別とか唯一というのでは馴染まない気のする、ゆるやかで居心地の良い関係性というものを自分はすでに手にしていて、これを維持したいと思っている。それは「一人で生きていく」という言い方にはそぐわない気がします。

自分がこのゆるやかで居心地の良い関係性、あるいはコミュニティと感じているものの一つ(あるいは大部分)はSNSのタイムラインで、なんだろう、“嬉しい教室”にたとえられるかなと思います。待ち合わせをしなくてもなんとなくそこに行けば会える、会えないこともあるけどそのうち会えると思えるし、会おうと思えば声をかけて会うこともできるみたいな。そしてこれはネット上だから心地よいという話でもなくて、ときどき、ふっと、将来のこととかを考えているときに、(今タイムラインで会おうと思えば会えるみたいに、会おうと思えば会える距離感で暮らせたら嬉しいだろうな)と思うことがあります。いま、リポスト経由で喋ったり、「通話しませんか!」でDiscordに行ったりするみたいに、「あそこのケーキ屋さん一緒に行きませんか!」とか「この本面白かったんでよかったら……」とかできたら嬉しいのに、と思うことは、ときどきよりもうちょっと高い頻度であります。将来の暮らしと言われて自分が思い描く「こうなったらいいな」は今のところこれです。

でもそれは特定の誰かこの人というわけではなく、また「この人たち」というグループ的な把握があるわけでもなくて、(この人や、この人や、この人……)という複数の“この人”がある、という形です。これについて“特定の誰か”とか“永続性を想定/前提としたもの”だったら、プロポーズとかそれに準じるような依頼や交渉ができるのかなと思いつつ、それも的外れな思考なのかなとも思ったり。結局自分が(こうなったらいいなあ)と思っている“こう”をしっかり把握できていないからないものねだり的にそう感じるのかもなとも思います。“こう”が固まれば、“こう”を実現するための方法や、難しいことの割り切りができるんだろうか。

記事のなかの「固有の文脈」や「共有された歴史」はわかるなと思っても、相手に「自分の人生を懸ける」覚悟を持つと聞くとちょっと腰が引けてしまう感覚がありました。そんな大それたことはできない、そんな覚悟はない、と思う。

クワロマンティック・リレーションシップの相手たちとは、それぞれの物語を生きているうえでたまに交差する、お互いがお互いの物語に遊びに行ったり来たりするイメージなんです。でも、同じ物語を共に生きる、2人で一緒に主人公をするような存在がいてもいいんじゃないかなと。

「お互いがお互いの物語に遊びに行ったり来たりする」存在は実感としてちょっとわかる気がして(自分の感覚だと行き来というよりは「交差するからお互いの姿が見える、往来がある」かも)、でも「2人で一緒に主人公をするような存在」というのは(そんなのがあり得るんだ!?)みたいな気がする。ので、逆説的にこのひと揃いのたとえがしっくりくるように思います。自分の感覚でしっくりくる関係性とそうでない関係性があるということ。

どのくらいのペースで連載が続いていくのか現時点では不透明なのですが、次回も楽しみにしています。

6月19日の日記

ネギの古くなったのなのか育ちすぎたやつなのか、買っておいてしばらく置いてしまったやつが「科学物質」の味になることがあります。

前回、ネギの芯の部分がやたら硬くなっているのを食べたらそんなだったので(ネギって腐ったら溶けるだけじゃないんだ……)と多少警戒する気持ちはあったのですが、今日のネギは買ってから少し置いてしまったとはいえそこまで古くしたつもりもなく、味噌汁のネギを噛んだら「あれだ!」になってややしょんぼりでした。でも捨てるのも忍びなく、かといって噛むと化学物質なので、あまり噛まずに呑み込むという胃に悪そうなことをしました。あれどうやって見分けたらいいんだろう。ちなみに過熱済みです。

原因の物質とか分かるかなと検索してみたら「カメムシ」「パクチー」「洗剤」「薬品」などがサジェストで出てきて、他にも困ったり気になったりしてる人がいるんだなと思いました。原因物質は今のところ特定できていませんが、相変わらず気になっています。トウが立つと言うらしい。


豆乳がうす甘くておいしい。

6月20日の日記

伊勢の和紅茶が最近のスタメン紅茶(たくさん積んでいる茶葉のなかで開封済み、今まさに飲んでいるもの)なのですが、ティーバッグを入れっぱなしにしてしまってもあまり渋くならないのがずぼらには嬉しいところです。渋み自体はあるのだけど、口の中がぎゅっとなるほどの強烈なものではなく許容範囲。ほんのりした甘さと果実感?みたいなものを感じるのでストレートティーが美味しいです。ちなみに柚子ティーもあり、こちらも美味しいです。

お茶が好きなことに加え、お茶が好きという話を人にするので贈り物としていただくこともあり、茶葉はそこそこ積みがちです。未開封のものが8種類くらいあります。


エアコン使用開始!

フィルターの清掃をしていなかったので、暑い暑いと思いつつ使用を躊躇っていたのですが、とうとうフィルターを清掃したうえで運転を開始しました。今日は気温はそこそこでしたが湿度が嫌な感じだったので、除湿運転(-0.5°)が大変快適でにこにこです。

現在19時23分、空がちょうどいい色合いです。薄い水色の空に雲が少しかかって、その雲に夕焼けのオレンジが反射して差し色になっています。夕暮れ時や夜明け時独特の空の配色が好きなのですが、写真で撮ると補正が入ってしまうのか肉眼で見たときと違ってしまうのが残念で、撮るのをやめたり、それでも記念にと撮影したりします。今日は撮影しなかったほうでした。

もうちょっと夜に近い時間帯の、空の地平線に近いところは明るくオレンジ色になっていて、そこから少しずつ色が淡くなって白に近くなって、薄い水色から青や藍色になって、というグラデーションも好きなのですが、こういった風景を見るとなんとなくサバンナを想起します。夕日で逆光になっている建物や植物があるとなお。サバンナに行ったこともなければ特別深い思い入れがあるわけでもないのですが、どうしてだろう。

6月21日の日記

高原英理『うさと私』 という本がある。短いお話がいくつか詰まった形式の本なのだけど、そのうちの「いるだけうさぎ」という作品を折に触れて思い出す。

 うさが悲しそうにいう

「うさ、役に立たないね、ちっともみきのこと助けてないね、いるだけだね」

 私がいう

「うさ、あんまり役に立つことばっかりやってると、役に立つことがうさの一番大事なところになるよ、いるだけだといるだけがうさの大事なところ」

「そうか、いるだけうさぎ」

「そう、いるだけうさぎ」

高原英理『うさと私』(書肆侃侃房, 2016年)41ページより

自分は人の役に立つと嬉しくなるタイプの人間だと思う。それは奉仕精神が強いのではなくて、人の役に立つと自分の価値が保障されたような補強されたような気分になるからだ。

「いるだけうさぎ」を思い出すたびに、一緒に思い出す記憶がある。中学生の頃、テスト期間になると特に仲良くもない子からメールが来ることがあった。試験範囲を教えてほしいというメールだ。普段ろくな交流もないのにこんなときばっかり都合よく使いやがってと、もしかしたら怒る場面だったかもしれないけれど、自分は割と嬉しかった。頼られるということは、役に立つということは、自分に価値があると思えるから。そしてそれは「いるだけうさぎ」とは真逆だと思う。

自己肯定感という言葉がある。自己を肯定する感覚ということで、自分に対して「いいね!」と思うこと、あるいはそう思えるかどうかということだと思っている。そして往々にして、自己肯定感は「自分のいいところ探し」とか「そうはいってもこんな無価値な自分は肯定できないよ」というふうに話が転がっていくのを見る。一方で、自己肯定感について「自分が良かろうと駄目だろうと受け入れて肯定するのが自己肯定感だ」という主張を見たことがあって、こっちのほうが自分の感覚に近いし、手元にあると心強い感覚だろうなと思う。自分には良いところも悪いところもある。でも(まあ)いいか、いいよねと思うこと。受け入れて流してしまうこと。自分のどこかが嫌いだったり、駄目だなと思ったりしても、それはあくまで自分の“そこ”が嫌いだったり駄目だったりするだけで、自分そのものとか自分全体が嫌いだったり駄目だったりしなくていいんだということ。「いるだけうさぎ」のは後者の意味合いでの自己肯定だなと思う。

自分は自分に対するベースが(まあいいか)なので、気に入らないところがあっても適当に目をつぶって付き合っていくことができる。これは割とお得ポイントだなと思う。

6月22日の日記

自分の気持ちにも複数のレイヤーがある、というのを扱いかねることがある。楽しいけど面倒くさいとか、分かってほしいけど話したくないとか、嫌われたくないけど好きじゃないとか。レイヤーではなくて軸かも。

自分の手元には複数の軸があり、軸それぞれに指向性があるという風に思えはしても、それを判断や行動に落とし込むときに(こっちに沿えばこうだけど、でもこっちは……)となることがある。それは当然のことだけど、どうしたらいいんだろう。本当にあれでよかったのかなと思うことがある。それはどっちの軸も自分にとっては“本当”で、優先順位を決めて折り合わせるしかないからだと思う。そしてその優先順位も入れ替わることがあるから、たとえば疲れているときは守備優先の判断をしても、回復したら(別の行動もできたんじゃないか)と思ったりする。

特別何か失敗したり嫌なことがあったわけではなく、ぼんやりそんなことを考える日でした。根が楽天的だし適当でもあるので、(まあそういうこともあるし、できることをできるようにやって、なるようになるんだな)とも思っています。


ぐるぐる考えているうちになぜか気分がむ……としてきたのでライチョウのぬいぐるみを撫でる。本当に手によく馴染むし、両手でお腹を包むようにして撫でると自然と目が合うので嬉しい。

そういえば名前をつけていなかったなと思う。名前、欲しいかね。どうかね。


アプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》のスクリーンショット画像。談話室掃除後のリワード画面。レオナの落とし物であるビーズのブレスレットと、ジェイドの落とし物である方位磁石が他のアイテムとともに回収されている。

ツイステはデイリーミッションだけほそぼそという感じになってしまっているのだけど、今日談話室を掃除したらレオナさんとジェイドが来ていたらしい。いいですね。

6月25日の日記

梅雨に入ったので豆苗の育ちが悪い。梅雨明けしてから買うべきだったのかもしれない。日当たりの悪さが豆苗の健やかな成長を阻害していると考えています。

そして豆苗と打ったら変換の第一候補が燈明ですこしびっくりしました。こんな格好いい語彙が第一候補なんだ……第二候補が灯明で、豆苗は三番目でした。

6月26日の日記

野田彩子×解問ハテナ×ダ・ヴィンチ・恐山 『君のクイズ』コミカライズ1巻発売記念!!『行きましょうトークイベントに』を視聴しました。先日の原宿さんの短歌イベントといい、配信のおかげで参加できており大変ありがたいです。

ダ・ヴィンチ・恐山さんが好き、野田彩子『ダブル』が好き、クイズも好きという理由で参加したのですが(『君のクイズ』は原作もコミカライズも気になりつつ未読……)、めちゃくちゃ楽しくて大充実のイベントでした。

いろいろな話題が出てくるイベントだったのですが、クイズの作問や企画、そこにある信頼の話を聞けたのが特に嬉しかったです。クイズは信頼という話は恐山さんが前にもしていたけれど、作問者とプレイヤーの間の信頼や駆け引き、すごく味を感じるなぁと思います。そしてこの“信頼”は短歌の制作と読解の文脈でも聞くことあって、それも面白いなと思います。クイズと短歌がそこで通じ合うのかと。でも創作全般そうなのかもという話でもあったっけ。伝わってくれ……! 受け取ってくれ……! という願いと信頼。そしてそれを受け取ったり受け取り損ねたりするということ。

オモコロチャンネルの魚長さチキンレースが近似値問題に近いというハテナさんの指摘はなるほど目から鱗で、でも単なる近似値クイズではなくチキンレースに持ち込んだところがオモコロナイズドされている部分でもあるよなと思いました。オモコロチャンネルの対抗系企画で視聴者はプレイヤーの罵声と怒声を求めているという指摘、否定はしきれません。

野田彩子先生がオモコロチャンネルがお好きとのことで、動画の話があったのも嬉しかったです。話題に上がったなかだと遅早押しクイズは名フォーマット・名出題・名回答の三拍子揃った神回だと思っているのですが、回答者の名プレーを生み出すのも作問者の信頼が上手く通ったからだよななど。

あと野田先生がオモコロチャンネルのファンアートで描いていらっしゃるのが電脳チャイナパトロールなの、こう、そうなんだ……!となんらかの嬉しさがありました。

『君のクイズ』についてのお話も大充実で、原作もコミカライズも絶対読もう!になりました。クイズだけでなく“濃密な男二人の関係性”が得意だからこそ野田先生が『君のクイズ』のコミカライズをやっていると聞けばそりゃもう、『ダブル』大好きな読者としては釣られぬわけにはいかず……自分も原作のラストを知って「え! これってコミカライズ版ではどうなるの!?」ってやきもきしたい! クイズの細かい描写に(詳細は知らないけどそうなんだ~)ってにこにこしたい!

あと冨塚さん……! コミカライズ版で四角いメガネの……原作ではそこまで目立つキャラではなかったというお話だったかと思いますが、コミカライズ版はちらっと見ただけでもめちゃくちゃ好みのキャラだなという気がしました。水前寺邦彦の匂いがするようなキャラに弱いんですよ自分は……


豆苗、無事大きくなっています。雨続きでろくに陽光が差していないだろうに、しっかり窓のほうに向かって伸びているのが面白いです。毎日向きを入れ替えてなるべく豆苗が傾かないようにしています。

6月29日の日記

川添愛『言語学バーリ・トゥード Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』を読む。思いがけず一気読みでした。文章が読みやすくてね……

もともとダ・ヴィンチ・恐山さんとの対談記事を読んで面白かった記憶があり(対談記事を読み返そうと思ったらリンク先がログイン限定公開になっていてショックを受けています……)、川添さんの著作も気になっていたんだったとふと思い出して手に取りました。

本の雰囲気としては、小林朋道「先生!」シリーズや、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』川上和人『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』川原繁人『音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む』あたりを想像してください。この手の「研究者が門外漢向けに書いている読み物」は、研究領域と文体によって好みが分かれるなあという印象なのですが、『言語学バーリ・トゥード』は研究領域が興味関心に重なっており(ただし研究のお話はやや薄め)、文体に癖はあるけど自分には合う、という感じでした。なのでサクサク読んでしまった挙句、他の本も読もうかと手配したのが今日の話です。

⚠突然ですが、以下で『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の内容を含む話をします。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の話をしているエリアは罫線で区切っているので、読みたくない人は二本目の罫線の下までスクロールしてください。

いまだにそんなこと言ってるのかと思われるかもしれませんが、叶うなら誰にだってこの作品を何も知らない状態で読んでほしいと思っているし、それを自分の言動で阻害することはどうしたって避けたいのです……何も知らずに読む『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が最高の読書体験だと信じているので。もしまだの方がこれを読んでいましたらこの機会にぜひ。


『言語学バーリ・トゥード Round1』の6章「宇宙人の言葉」を読みながら、エリディアンの言語とその翻訳について思いを馳せました。

以上のような理由から、宇宙人の言語といえども「信号の組み合わせから成り立つ」という特徴からは簡単に逃げられないと思うのだが、どうだろうか。もしかしたら件の記事のチョムスキーも、そういう意味で「宇宙人の言葉は我々の言葉とさほど変わらない」と言ったのかもしれない。だが、(略)宇宙人は我々にない感覚を使うかもしれないし、たとえ聴覚を使うとしても、百個ぐらいある発声器官から同時に発せられるような言葉を我々が理解するのは困難だろうし、一つの言葉を言うのに百年かかるような話し方だったらコミュニケーションは取れないだろう。

川添愛『言語学バーリ・トゥード Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』(東京大学出版、2021年)74-75ページ

確かにエリディアン語と英語の翻訳は単語単位で行われていて「信号の組み合わせから成り立つ」という特徴を有しているように見えたなとか、エリディアンの言葉(発声)は和音にたとえられていたと思うのですが、発声器官そのものは一つだったのかなとか(いわゆる口のような“ここから声を出しています”という器官は小説でも映画でも明示されていなかったように思う)。

そう振り返ると、信号の組み合わせというのは「その言語を少ししか知らない/学習中の相手とやりとりする」という場合にも便利な形式なのかなと思いました。手持ちの語彙が少ない状態でも、組み合わせによって伝達可能な内容をより広く確保できるので。

宇宙人の言語はどんな形をしているのか、かなり気になるので関連文献も探したいところです。


他に印象に残っている章は、副題にもなっている「AIは『絶対に押すなよ』を理解できるか」です。言葉を使うとき、各単語の辞書的な意味や文そのものが表す内容の「意味」と、話し手がその言葉に載せて聞き手に伝えようとする「意図」があり、聞き手が意図を推測するにあたっては言葉の外にある常識や文化や知識や文脈が必要になるが、これをAIが適切に運用して言葉を解釈するのは難しい、といった内容でした。

どうして印象に残ったかというと、短歌の解釈のことを思い出したからです。「意図」とは少しニュアンスが違うけれど、各単語の辞書的な意味や文そのものが表す内容の「意味」に対して、言葉の外にある常識や文化や知識や文脈と組み合わさることで変化するものとして、短歌には解釈とか読解内容のようなものがあると思うとしっくりくるなあと。「AIは『絶対に押すなよ』を理解できるか」は、人間とAIを対置したうえで、人間であれば言葉の外側の常識や知識や文脈をある程度正しく(話し手の意図に沿って)運用できるのに対して、AIにその運用ルールを教えるのは難しいという論でしたが、短歌の場合は「作者の意図」が明確にあるとも限らないし、読者それぞれによって「言葉の外」の形や運用が異なる(ゆえに読解内容も異なる)部分があるんだろうなあと。かつ、「言葉の外」を運用していることについて無自覚なのは、言葉一般でも短歌でも重なる部分なのかもなと。これは自分が、短歌読解における「言葉の外」の運用に読者は自覚的になるべきだという考えを持っているがゆえの連想の転がり方でもありますが。

言葉一般の運用と短歌の読解とで重なる部分があるように思いつつ、すべてがそうと感じるわけでもなく、見比べるなかで短歌読解の特徴に触れられる気がして面白かったです。

(念のため申し添えますが、文中で短歌の話は一切していないです)

今月分のまとめ

7月4日の夜です。7月5日始まりたてと言ってもいいです。6月はお喋りの月で、いろんな人とたくさんお喋りしました。具体的には一回あたり5時間とか。自分はお喋りが好きなほうなのかもな、と最近は思います。こんなにたくさん、しかも楽しくおしゃべりしてくださる皆さんにとっても感謝……!

いろいろな〆切が近づいており、(まずい……!)と思いはじめています。とはいえ現代短歌社賞の300首はぼちぼち準備できており、だからこそ笹井宏之賞の50首新作のことをそろそろ考えなければなと……あと存在証明用の小説とか……! 2週間などあっという間なので、気合を入れて頑張ろうと思います。頑張るぞ!

@dr_gaap
短歌と読書と二次創作と旅行と美味しいものが好き。今はまっているのはツイステとオモコロと匿名ラジオです。短歌で楽しいことをするのが大好き。クワロマンティックでアロマンティックでアセクシュアルです。 感想などいただけたら嬉しいです。→wavebox.me/wave/94ufrrxytf5hliop