この文章は、2025年6月発行の『いるよの話 クワロマンティック・アロマンティック・アセクシュアルの本が欲しくて作るの巻』から抜粋したものです。
なお、スクリーン上で読みやすくするために改行などの調節を加えています。
「Aスペクトラム向きの物語」ってなんだろう、というのがこの文章のテーマです。
物心ついた頃から物語と本が好きで、一番長い付き合いの趣味が読書です。小説だけでなく漫画も好きです。ジャンルとしてはミステリやファンタジーが好きで、でも今はこれらのジャンルを特に選んで読むというよりは、心の故郷や地元みたいに思っているというのが正確なところかなと思います。
ここ最近読んで面白かった作品は、柳広司『パンとペンの事件簿』、斉藤倫『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』、久野田ショウ『目の前の神様』など。またここ数年は《ディズニー ツイステッドワンダーランド》というアプリゲームにハマっていて、そこでも物語を楽しんでいます。
この本や、この本に連なる文章を書くことにしたきっかけの一つが「Aスペクトラムの本が少ない」ということでした。
このときイメージしていた「本」というのは「Aスペクトラムについて知ろう」というような実用・教養としてのそれでしたが、Aスペクトラムのキャラクターが出てくる物語ももっとあればいいのに、と思っています。
そういった作品も少しは知っていますが、でもそれは「アロマンティックやアセクシュアルのキャラクターが出てくる作品ってないのかな」と探して見つけたものがほとんどで、なんとなく読んだ作品に出てきて「へえ!」となったことはほとんどありません。
ただ、そう。「Aスペクトラムのキャラクターが出てくる物語」がイコールで「Aスペクトラムである自分のための物語」ではないんだよな、ということをここ最近感じています。
「ための」というのは少し大袈裟な言い方で、「好みに合う」とか「楽しく読める」とか「居心地が良い」をめぐっての話です。
「Aスペクトラム当事者が登場する物語」をまとめて紹介する記事を作れたらといくつかの作品を読むなかで、自分は「恋愛感情がない」だけでなく「恋愛をしなければならないという強迫観念」や「パートナーがほしいという感覚」もなく、かつ他者から恋愛に巻き込まれることもないという、そこに自分の特徴というか自己認識の核みたいなものがあるのかなと感じました。
とても端的に言えば、Aスペクトラムの当事者が物語に登場しても「恋愛しない自分は普通じゃない。ちゃんと恋愛をしなくちゃ」とか「恋人になることを求められて困る」という部分が物語の核にあると、「自分じゃない誰かの話だな~」となってしまう、という感じです。
でもこれは「その物語がAスペクトラム向けではない」ということにはなりません。単に、そこでAスペクトラムならではのものとして描かれる困難が、自分の経験や実感とマッチしないというだけのことなので。
そして、自分とマッチしなかったとしても、それがAスペクトラムが遭遇しがちな困難であり、また解消が望まれる部分であれば、何度でも描かれる必要があるだろう、と思います。
こういうことで困っている、というアピールは、その存在が広く認知されているとは言い難いAスペクトラムにとって特に必要なことだと思うので。
そして同時に、すごく当たり前のことですが、「Aスペクトラム当事者を描いた物語」に出てくるAスペクトラム当事者が自分に似ているとは限らないし、そこで「こんなに違うんだな~」と感じるのも自然なことだと思います。
「同じだけど違う」は、時として「まったく違う」よりも大きな違和感や居心地の悪さにつながるんだよなという。そしてそれが物語の核になっていればなおさらそう感じるのかもしれません。
もちろん「自分と同じ」でなければ楽しめないとか居心地が悪いと限った話ではないのですが、「同じかなと思ったら違った」というところで残念な気持ちになってしまうのかも、とは思います。
だから、という接続が適当なのか怪しいですが、自分にとって「居心地の良い物語」というのは、必ずしもAスペクトラム当事者が登場する物語に限らず、恋愛が登場しないとか、登場しても当たり前の顔をしていないものかもしれない、と気づきました。
自分は読書が趣味で、いろいろ読んできたけれど、居心地が悪いとはっきり感じる作品はそう多くありませんでした。そのうちのいくらかは、恋愛を当たり前とする価値観に慣れてしまった目でもって「そういうものね」と読み飛ばしてきた部分もあっただろうなと思うけれど、そうではなく、Aスペクトラムへの特段の目くばせはなくても、ただ恋愛の影が薄いなどの理由で居心地の悪さを感じない物語もたくさんあったよな、と。
あるいはAスペクトラムの登場人物がいるかどうかに関わらず、恋愛の規範性を問い直していると感じる作品が心地よいのもこれとつながるかもしれません。
こうした物語は、Aスペクトラムの可視化や当事者への理解促進という意味では弱い部分があるかもしれませんが、当事者が安心して読める物語にはなる、と思います。たとえば、大島真寿美『ピエタ』という小説を自分はシスターフッド(女性同士の連帯)の作品として意識しているのですが、「男女の恋愛」から離れた女性同士の結びつきが印象的で、そこに居心地の良さや嬉しさを感じたように思います。
すごく当たり前のことではありますが、Aスペクトラム当事者のなかにもいろいろな人がいて、恋愛感情はないけど恋愛的とされる行為には興味があるとか、パートナーがほしいとか、恋愛に巻き込まれて困るとか、パートナーがいるとかいないとか自分の恋愛指向を打ち明けているとか隠しているとか、いろいろな状況があり経験がある。
だからAスペクトラム当事者同士でも、どんな物語に居心地の良さや共感を覚えるかは異なるし、そもそも物語にだって小説・漫画・アニメ・ドラマ・映画・ゲームなど様々な形式があり、そのなかの何を好んでいるか、どれが欲しいかも様々なはずだ、と、本当に今さら、Aスペクトラム当事者が出てくる作品を複数まとめて読んだことで、そしてそれら作品のいくつかから居心地の悪さを覚えたことで、ようやく思い至りました。
自分は、Aスペクトラム当事者が出てくる自分のための物語がほしいかというと、その欲求はあまり強くないなと思います。ただ、ふと手に取った物語たちのなかに、当たり前のように出てきてくれたらすごく嬉しいなと思います。
Aスペクトラムの啓発を目的としていなくても、当事者の現実を描くことに力点が置かれていなくてもいいです(誤解や偏見を広める描写はNOですが)。
ファンタジーの、ミステリの、サスペンスの、コメディの、学園青春ものの、お仕事ものの、これまでたくさん手に取ってきたような物語たちのなかに、ふつうに登場してくれたら嬉しい。現実に自分たちがいるように、物語のなかにいてくれたら嬉しいし、それが実現するのは作り手の方が自分たちの存在を知っているからこそだと思います。
あるいは、Aスペクトラム当事者が登場しなくても恋愛規範への対抗が窺える作品は嬉しく居心地が良いので、自分はここを探ることで好みの作品に出会えるかもなと思っています。
Aスペクトラムである“わたしたち”が出てくる物語はまだあまり多くないけれど、そうではない形でも“わたしたち”にとって居心地の良い物語はある。それは嬉しくて少しさみしくて、でもまあ悪くないことなんじゃないか、と思います。