承前
この文章は、Blueskyでの相互フォロワーさんの投稿と、それに触発された方々の投稿にさらに触発されて書きはじめたものです。
二次創作短歌における、キャラクターや原作と縁深いモチーフ(例としてキャラクターの好物や故郷など)の取り扱いについて、短歌を「作るとき」と「読むとき」から考えてみました。
作るとき
短歌に使うモチーフと短歌に詠むキャラクター/原作が近すぎるというブレーキのかけ方を自分はほとんどしないし、むしろ題詠・テーマ詠・いちごつみなどでは「そのキャラ/原作っぽい」単語を積極的に使う傾向がある気がします。たとえば【金貨】ならアズール・アーシェングロットとカリム・アルアジーム、【暁光】はロロ・フランム、【夏空】はデュース・スペード、【兄】はシュラウド兄弟や松野家の六つ子で、【夢】なら夢水清志郎、といったように。
※題詠は指定された語句を詠み込んで短歌を作ること、テーマ詠は指定されたテーマで短歌を作ること。テーマ詠ではテーマとして提示された語句を短歌に入れても入れなくてもいいのが題詠との違い。
いちごつみは短歌のしりとり遊びのようなもので、場に出ている短歌から単語を一つもらって新しい短歌を作るのを繰り返していくもの。
短歌の入門書や教本を自分はあまり読まないのですが、そこで言われるらしい「定番の表象を持ち出さない」や「イメージとしてみんなに定着しているものを出さない」というのは、たとえば「絶望の比喩に夜を使わない」とか「光を言い表すのに“キラキラ”を使わない」ということかなと理解しています。言い換えると「○○を表現するときに○○を使う」をするとき、ベタすぎる組み合わせを使うと読者に響かなくなるからやめておこうねという一つのお約束のようなものだと思っています(でもこの約束を守るかどうかはそれぞれが決めればいい)。
そしてその「ベタすぎる表現の組み合わせ」について、「リドル・ローズハートの苛烈さの比喩として紅薔薇を使う」は近いことのような気がするけど、「リドル・ローズハートの短歌に紅薔薇を使う」ことが近いかというと、それは別の気がします。
リドルたちが暮らすハーツラビュル寮には薔薇の庭園があります。だから実景を詠もうとして薔薇が出てくることもあるだろうし、あるいはリドル全体に対する換喩として薔薇を使うこともあるかもしれません。それが「言い表そうとするものに対して持ち出す表象がベタ」にあたるかというと、必ずしもそうとは限らないように思います。
なんでもない日にはケーキを紅薔薇をあなたに昨日と変わらぬ敬慕を
明けぬ夜はなくてあけぼの 絶望と呼ぶには淡い諦念の色
キャラクターと近い距離にあるモチーフのうち、もともとキャラクターと共有するイメージをいくらか持っているものであれば、その共有するところのイメージを指すために該当のモチーフを使うと“ベタ”になるというのは起こると思います。たとえばリドルと紅薔薇なら、赤・苛烈さ・気高さなどのイメージが共通していると自分は思うので、リドルと紅薔薇を赤・苛烈さ・気高さのイメージで結びつけて使うのは“ベタ”に入ります。
でもそれを二次創作短歌を作るときに避けるべきかと言えば、使い方次第だよな~と思います。たとえば一首のなかにベタな表現があったとしても、その短歌の中心が別のところにあればその短歌の新鮮さは保たれる(その短歌そのものがベタ≒陳腐化はしない)のでは?と思います。
また、二次創作では“ベタ=お約束”が嬉しいところもあるのでは?という気持ちもあります。【紅薔薇が燃えるように苛烈なリドル・ローズハート】という修辞はベタもベタかもしれませんが、かえってそのベタ=お約束を「よっ、待ってました!」と楽しむのも二次創作の一つの側面のように思います。
王笏 の軌跡麗し茜さす君の賜はすフレイムブラスト
革命のなきをいっとう知り尽くし樹下に無冠の王子は眠る
ただいずれにせよこれはあらためて考えたからそう思うのであって、自分は普段そうしたベタさはほぼ意識せずに短歌を作っている気がします。
たとえば自分はロロ・フランムの短歌を20首弱ほど公開していますが、そのうち半分ほどに炎や赤といった彼に縁深いモチーフが入っています。
声変わり
永遠 に迎えぬ弟の声は吾を責めず 炎昼
あるいは、モチーフに限定せず自分がどう二次創作短歌を作っているか、そのなかにモチーフがどう登場するのかを見てみることで分かることもあるのではと思いました。
自分が二次創作短歌を作るとき、原作のシーンを振り返って作ることもあれば、題詠・テーマ詠・いちごつみなど使いたい語句がまずあるときもあります。キャラクターの感情や思考を想像することもあれば、景色やシチュエーションを一首のなかに構築したいときもあります。「使いたい言葉」から作りはじめて、具体的な景色やシチュエーションを描いたり、そこでのキャラクターの感情を短歌にすることもあります。そして短歌にしようとする感情も思考も景色もシチュエーションも、原作のなかにあったり、そこから想像したIFだったりそれぞれです。
まだ兄でいたいと思う放課後を一人で過ごすのに慣れながら
モチーフの扱いがベタになりすぎないか、必然性から離れてベタに流れてしまわないかという点では、「使いたい言葉がまずある」や「キャラクターの思考を短歌にする」ときが要注意かも、とは自分を振り返って感じます。言葉だけで短歌を作ると、どこかで他の何かを置き去りにしてしまうことがあるような気がするからです。
温室は晩冬の季語人工の春に親しみ眠る真昼よ
作り方とは別に短歌を作るときの楽しさもいろいろある気がして、ロロの短歌に炎や赤といったモチーフをよく登場させているのは、彼の炎にまつわる過去や屈託をどう切り取るか、どう短歌にするかを自分が楽しんでいたから、あるいは短歌を作ることでロロの感情を掘り下げることが楽しかったからかもしれないと思います。
声変わり永遠に迎えぬ弟の声は吾を責めず 炎昼
一方で連作「そこにある水」は【現代に人間として転生し、ジェイドやアズール(かつての幼馴染)とは再会できておらず、なんとなくつまらないようなしっくりこないような感覚を抱えているフロイド・リーチ視点の短歌たち】という設定を念頭に置きつつ作ったもので、原作の気配は限りなく薄いと思います。
※フロイドたちが登場する原作《ディズニー ツイステッドワンダーランド》に現代日本への転生要素は今のところありません。
「そこにある水」
泳げない川ばかりある町に住み橋から見下ろす草と空き缶
振りそびれた手があったことどうせまた会うからいいやと入るコンビニ
逃げ水をのんびりと追う道すがら遠い記憶はゆらゆら揺れる
旅暮らし この体すら異邦だと思う日暮れにかじるコロッケ
水のように揺れる記憶を抱きかかえ近づく春の気配を思う
久しぶりと手を振るときは軽く振るきっとあなたは大股で来る
これは「原作という素材をどう調理するか」という楽しみ方とはかなり離れた楽しみ方と作り方をしていて、「こういうときフロイドだったらどう感じるか、それをどう言葉にするか」という部分を楽しんで作ったような記憶があります。こういう特殊な設定で連作を作ったのは、利き短歌企画で作者当てをする(作者だとばれないように意識しつつ連作を作る)という背景があったからでもありますが。
自分の場合、短歌の”私”にキャラクターを置くことや、そうして短歌を作ることで該当キャラクターの思考や感情をなぞることに二次創作短歌の楽しさを特に見出していて、監督的な「モチーフのバランス」という見方はあまりしていないような気がします。出るときは出るし出ないときは出ない。ただ、題詠など短歌を作る状況によっては「キャラっぽい語句」を積極的に短歌のなかに取り込むので、それらしい単語が並んだ短歌は多いような気がします。また、とはいえ推敲の段階で(こことここの単語は意味が被ってるからどっちかにするか)などの調整はするので、監督的な視点がちっともないというわけではない、はずです。
王冠が欲しい人には王冠をケーキはドーナツにはならないよ
読むとき
「原作ジャンルを知らなければ、短歌に登場するその語句が原作で強い意味を持つモチーフだと気づかない」ということがあると思います。
とはいえ二次創作短歌は、おおよその場合は原作名を添える形で発表されることが多いですし、自分も同じジャンルの人が読んでくれるんだろうなという気持ちで原作名やキャラ名を添えて公開しているので、上の状況整理がどの程度意味を持つだろうとも思います。とはいえ「ジャンルAで知り合ったフォロワーさんも多々いるタイムラインにジャンルBの二次創作短歌を投稿する」といったことも日々のなかにはあるし、いったん頭の片隅に置いておいてもよいのかもと思って書いていきます。
たとえば【薔薇】はツイステをプレイしていればリドルやハーツラビュル寮の面々に連なる単語として意識されると思いますが、単語としてはあくまで一般的な名詞です。日常生活でも、ツイステ以外の作品でも見かけるものです。【薔薇】という単語からリドルたちにたどり着けるのは、多少なり原作を知っている人だけだと思います。
反対に【フレイムブラスト】は作品独自の単語(造語)と言えるはずで、一目で“作品固有のワードっぽいぞ”と感じる人も多そうです。原作を知らなくても、検索などでたどりつくことができるかもしれません。
一方で【たかがサイコロ一つ】は、ツイステに登場するストーリーのタイトルの一つですが、そうと知らなければ、そもそもこれが意味を持つひとまとまりだと気づくことは難しいように思います。【フレイムブラスト】と違って検索しようという発想になることも難しいでしょう。
噴水を贅沢品と指させば笑われること笑えないこと
青薔薇の似合うその手に青薔薇を あなたにあなたのきっと幸あれ
アズールの集めた金貨がアズールの価値じゃないってうまく言えない
『おそ松さん』の二次創作短歌に親しんでいた頃、【梨】はよく目にするワードの一つだったように思います。
梨も一般名詞ではありますが、おそ松さんにおける【梨】は含意が大きく、おそ松さんの特定のエピソードを知っている読者とそうではない読者とでは、【梨】から広がるイメージは結構違うんじゃないかと思います。あるいは【ニート】に対して感じるシリアス度合いも作品内外で、あるいはおそ松さんのどのエピソードを念頭に置くかで大きく揺らぐのではないかと思います。
お前らじゃない方が俺 消しゴムのように投げては遊ぶ自意識
なぁ醤油、と呼びかけるには遠くなり弟からの手紙が届く
ニートだからちゃんとしなきゃと兄の出す確定申告 萌ゆる緑の
原作との結びつきの強さ
原作の外での普遍性
※原作を持つ「特別な意味」の語句であることの気づきやすさ
原作内外で意味やイメージにどれだけ差があるか
このあたりのパラメーターの差によって、一口にモチーフと言ってもその受け取られ方や二次創作短歌での“適切”な扱いは違ってくるんじゃないかと思います。
とはいえ繰り返しになりますが、やはりこれらのことも自分にとっては「あらためて考えたからそう思う」ことで、普段からこうしたことに気を配って二次創作短歌を作っているわけではありません。
先輩面見せるにも慣れ二年生。後輩を売るぴかぴかの笑み
先輩の顔が上手な人だった 三年生になって気づいた
トッティはトッティのことが大好きと口ずさむときの強さと弱さ
いろいろ書いてきましたが、ここに書いたことのほとんどは「あらためて考えようとしたから考えたこと、その先で思ったこと」であって、普段からこうしたことに“気をつけて”二次創作短歌を作っているわけでは自分はないです。むしろこの文章を書きながら、あるいはきっかけになった「二次創作短歌とモチーフ」をめぐるいくつかの方の言葉を見ながら、自分は普段かなりぼんやり二次創作短歌を作っているなあと思いました。
自分は上に書いた通りぼんやり短歌をやっていますが、二次創作短歌を作るようになってそこそこ長い時間が経ち、その間にいろんな形で二次創作短歌に触れてきました。二次創作短歌を作るときに自分が「意識していること」はあまり多くないけれど、でも整理して考えようとすればいろいろ出てくること、こうして考えようとしたときに(こういう短歌があったっけなあ)と振り返る先に自分の短歌も人の短歌もたくさんあって、それが嬉しいことなどを感じつつこの文章を書きました。
この文章は隅から隅まであくまで自分が考えたり感じたりしたことをつらつらまとめたものにすぎませんが、「実際にどんな二次創作短歌があるのか」や「それを読んだときにどう感じるのか」の懸け橋になるものを一緒に置いておけたら嬉しいなと思うので、この文章を書きながら思い返していた・参考にした短歌の企画たちをこの下で紹介します。
二次創作短歌、ずっと楽しいです。
おそ松短歌大連作
アニメ『おそ松さん』の各話やオープニング・エンディング楽曲、およびアニメ劇場版第一作などをテーマにした短歌を持ち寄るTwitterタグ企画。
「原作内の特定のエピソード/楽曲をテーマにした短歌」がたくさんあります。
twst短歌カード集め
アプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》に登場する各カードをテーマにした短歌を持ち寄るTwitterタグ企画。
「原作内の特定の要素をテーマにした短歌」がたくさんあります。
二次創作短歌オンリー歌会
二次創作短歌限定、原作問わずの歌会。詠草一覧公開(歌会に参加した短歌にコメントを付ける)段階では原作名は明かされていないので、「原作を知らない状態で二次創作短歌を読む」や「原作を知らない二次創作短歌を読む」がたくさん起こります。
モラトリアム 笑って過ごしているうちに滅びる世界なら滅びなよ
一番を取り合う旅の道行きに弟子とは仲間ではなく弟子さ
文中に引用した短歌は、すべてDr.ギャップが過去に発表した二次創作短歌です。