ダイバーシティ入門の講義でアロマンティックという言葉を知って、あ、自分ってこれかもと思ったとき、次に思い浮かんだのが菜々姉だった。菜々姉の「藤音ちゃんが恋したら絶対絶対教えてね。そしたら一緒に恋バナしようね」という言葉を、本当にすることはできないんだなと思ったのだ。
菜々姉は六歳年上のいとこだ。家が同じ市内にあったのと、わたしのお母さんと菜々姉のお父さん(ここが姉弟)の仲が良かったこともあって、小さい頃からお互いの家を行き来していた。わたしから見た菜々姉を一言で表すなら「憧れのお姉さん」だ。本人にはあんまり言わないけど。快活で趣味が多くておしゃれで、わたしに初めての世界をたくさん見せてくれた。
たとえば初めてのマニキュアは高校生だった菜々姉が小学生だったわたしに塗ってくれたものだ。菜々姉の「好きな色を選んでね」にさんざん悩んで手に取ったペールパープルはお気に入りの色になっていて、今もお店で見かけると手に取ってしまう。
美術館や博物館、それから旅行の楽しさを教えてくれたのも菜々姉だ。美術館と博物館は菜々姉が大学生になってすぐの夏休みにドライブがてら連れていってくれて、他にも運転免許を取った菜々姉と一緒に行ったところは枚挙にいとまがないし、そういえば初めて電車に乗ったのも菜々姉と一緒だった気がする。小学生の頃、菜々姉のお出かけについていくのはわたしのなかで一番わくわくする冒険だったし、中学生になって興味や趣味が大人のそれに近づけば、菜々姉と遊んだりいろいろ教えてもらうのがもっと楽しくなった。
そうして菜々姉の教えてくれたものたちのいくつかはわたしの趣味になったし、そうでなくても菜々姉の好きなものの話を聞くのは楽しかった。それはわたしが大きくなって、六歳差が昔ほど大きくなくなってからも変わらない。菜々姉から聞く好きなものの話はいつだってキラキラしていて楽しそうだし、かといって趣味を押し付けてくるというわけでもなかったから。
“恋愛”も菜々姉の話によく出てくる一つだった。「藤音ちゃんが恋をしたら教えてね。一緒に恋バナしようね」というのは菜々姉の口癖だった。「恋人ができたらじゃないからね。恋をしたらだからね」とも言われた。菜々姉は恋が大好きだった。恋人が途切れたことがない、という言い回しがあるけれど、菜々姉は恋を途切れさせたことがない人だと思う。
恋人がいなくても菜々姉はいつだって恋をしていた。たぶん菜々姉にとって恋は趣味の一つなんじゃないかとわたしは思っている。三年くらい前だったと思う。ふと思いたって菜々姉に聞いたのだ。ずっと恋愛してるって本当? って。菜々姉が運転する助手席でのことだった。
「うーん……おおよそそうかなあ。途切れないようにとか意識してるわけじゃないんだけど、自然と探しちゃうというか」
「そうなんだ」
「同じ相手にってわけじゃないから、ずっとっていう言い方はなんか変な感じがするけどね。まあでも、いつでもって言えばだいたいそうか」
そう言ってうんうん頷くと、菜々姉は「母さんとなに話してたの」と悪戯めいて笑った。菜々姉とのドライブが始まる前、わたしは菜々姉の家で恵さん──菜々姉のお母さんとお茶をしていた。
「えーっと、惚れっぽすぎるんじゃないか心配だって」
「そういうわけじゃあないって自分では思ってるんだけどねえ。恋人がいる間は他に目移りしたりしないし」
「でも、その人と別れたら次の気になる人ができるんだよね?」
「できるっていうか探すっていうか……まあそんな感じ。別に恋愛とか恋人に依存してるつもりはないんだけどなぁ」
「あ、そんな風には思ってないよ。菜々姉は恋愛好きに見えるけど、他にも趣味たくさんあるし、恋愛のせいで他のこと適当にするみたいなのは見たことないし」
「そうだね、自分でもそう思う。恋愛は好きだけど、それさえあればいいってわけじゃないもん」
「じゃあさ、菜々姉は恋愛のどんなとこが好きなの?」
今の恋人のどんなところが好きだとか、先週のデートが楽しかったとか、そういう話を菜々姉がすることはあったけど、「恋愛」そのものの話はあんまり聞いたことがなかったな、と思って尋ねる。菜々姉はちらっとこっちを見たあとで視線を正面に戻すと「そうだなー」と言った。
「誰かを好きになったり、好きになってもらおうとしたり、親密になったりっていうのが楽しいんだよね。好きな人がいるってだけでも楽しいし、あとは一気に解像度が上がる感じとか」
「解像度?」
「友達だったときよりいろんなことを気にするようになって、だからいろんなことがわかるようになるっていうか……もちろん友達だってそうではあるんだけど、もう一歩踏み込んで初めて気づけたり見せてもらえたりする部分があると思うんだよね。それで、その相手とか、世界そのものの解像度が上がるのが好き」
自分で聞いたくせに、わたしは菜々姉の答えにどう返事をしていいかわからなくなってしまった。うんとかへえとかふうんとか、なるほどとかそうなんだねとか、どれも合っていないような気がした。
菜々姉の恋愛ってそうなんだ、楽しいことについて喋るときの声だ、とも思ったし、恋人じゃないとダメなのかと思ってさみしい気もした。つまりそれは、菜々姉のなかにわたしには見せないけど恋人には見せる部分があるってことだ。当たり前なのかもしれないけど、それってなんか、なんでなんだろう。
「だから両思いでも片思いでも楽しい。こんな感じかな」
「うん」
「もしかして藤音ちゃんも恋愛に興味出てきた? 気になる人ができたとか?」
「ううん、そういうわけじゃないよ。そういえばこれまで聞いたことなかったなって、それで気になっただけ」
「ついに藤音ちゃんの恋バナ聞けるのかなって思ったのにな~」
「その時はちゃんと話すって。話したかったらだけど」
「もーっ、もてあそんでくれちゃって!」
あははと菜々姉と一緒に笑ったとき、わたしはいつ恋をするのかなと思っていた。それはひっくり返せば、いつかは恋をするんだろうなというぼんやりとした思い込みでもあった。乳歯が永久歯に変わるみたいに、いつかはわからなくてもいつかそのうち来るんだろうって。
けど、どうやらそうではなかったらしいと気づいたのが二ヶ月前のことだ。必修だったダイバーシティ入門の講義のセクシュアリティの回の、授業資料の隅っこにその単語はあった。「他人に対して恋愛対象としての魅力をほとんど、もしくはまったく感じない人」という解説を読んで、あれっと思った。これ、わたしもそうなんじゃない?
いつかは恋をする日が来るのかもというなんとなくのイメージより、「他人に対して恋愛対象としての魅力をほとんど、もしくはまったく感じない人」というUDフォントの文字列のほうがしっくりきて、ああそうなのかと思った。わたしはこれまで恋をしたことがなかったけれど、これからもそうらしい。
その、自分は誰かに恋をすることはないらしいという気づきは大してショックではなかった。恋愛的な魅力を誰にも感じない人がいるということへの「えっそういうこともあるんだ⁉」という驚きはあったけど、それだって、そもそも自分がそうじゃないかと思えばすとんと飲みこめた。
でも、反射で菜々姉のことを思い出して、菜々姉と恋バナをすることはないんだと思ったらさみしくなった。恋の話をする菜々姉はいつも楽しそうで、いつか一緒に恋の話をできたら楽しいんだろうなと思っていたから、それが実現しないんだなと思えばさみしかった。
その講義から二ヶ月くらい経って夏休みが始まった。大学生の夏休みはびっくりするくらい長い。旅行に行ってバイトで稼いでサークルの活動に顔を出して、あれこれ忙しく楽しいスケジュールの合間に、お盆に合わせて実家にも帰った。菜々姉もお盆は帰る予定だというので、じゃあ一緒にご飯でも食べようという話になって、今はお店を目指して菜々姉の運転する車に乗っているところだ。
菜々姉は免許を取りたての頃から、よくドライブに連れて行ってくれた。行き先は隣の市のちょっと大きなショッピングモールだったり、美術館や博物館だったり、単館の映画館だったり、いろいろだ。
「久しぶり。どう、変わりない?」
「うん、菜々姉も元気そうだね。一昨日のインスタの投稿見たよ」
「あっ海鮮丼のやつ? 美味しそうだったでしょ。セットのあら汁も美味しくてさ、今度一緒に行く?」
「行きたい行きたい! あの写真見てからずーっとウニとかホタテとか食べたくなっちゃって」
いつでもできるような会話が懐かしくて、帰ってきたんだなぁと思う。菜々姉は菜々姉で地元を離れているから、帰省すれば会えるってわけではないんだけれど。
「大学生活はどうよ。夏休みなにしてるの?」
「だいたい旅行とバイトかな。いつものバイト先は夏休み中はシフトないから、連休だーってあちこち旅行して、間に短期のバイト入れて」
「旅行はインスタで見たよ。金沢と松山と、どっちも一人?」
「うん。そのほうが気楽だし。あ、友達とも日帰りでどっか行こうって話はしてるんだけど、それは九月入ってからの予定」
もしかして友達いないか不安にさせてる? と思ってなんとなく付け足す。友達はいるし関係も良好だけど、泊まりの旅行を一緒にできるかというとまだ微妙だった。厳密に言えば、泊まり自体は嫌じゃないけど、旅行先の趣味が合うかはまだわからない感じ。
「一緒に旅行行ってみたいなとは思うんだけど、旅行先でどこ見たいかとかズレるかもって思うと迷っちゃって。せっかく遠く行くなら気になるところ全部回りたいし」
「わかるなー。人と行く旅行と一人旅とで楽しさもまた別だしね。でも楽しそうで何より」
「大学生の夏休み満喫中でーす」
「羨ましいでーす。でも本当、大学生になったら楽しいこといっぱいあるし、夏休みも一緒に遊んでくれる暇なんかないかもって思ってたからさ、今日一緒に出掛けられて良かった」
菜々姉の言葉に思わず「えー⁉」と叫ぶ。
「遊んでもらってるのわたしのほうだよ⁉」
「あはは! だって大学一年生の夏休みだよ。去年までより時間もお金もあって、人間関係も広がって、もう親戚のお姉さんと一緒に遊ぶ時間なんかないかなって。もしかしたら恋人と一緒に過ごすのに忙しくなったりして⁉ とか思ったりもしたしさ」
恋人、と言われた瞬間に(あ)と思った。そうか、そうだ。普段だったら「菜々姉だって恋人がいても遊んでくれるじゃん」と返すところだけど、わたしはもうその日が来ることはないと気づいたから。
「……あのさ、菜々姉」
「うんー?」
「わたし、たぶん、恋人できることないと思う。だから菜々姉と恋バナできなくて……ごめん」
そう口に出してから、どうしよう、と思った。恋人というキーワードでそれを思い出して、菜々姉には伝えておきたいと思ったからこう言ったけど、そのつもりで準備をしてきたわけじゃなかった。なにをどこから話せばわかってもらえるだろうか。菜々姉と会ったらこういう話題になることは予想できたんだから、話すにしろ今はやめるにしろちゃんと準備をしてくればよかった。
わたしの言葉に菜々姉はぱっとこちらを振り返って、慌てて前を向きなおした。信号待ちでもない車はまっすぐ走り続けている。
「えっと、恋愛絡みで何かあった? 私が聞いてもいい?」
「何かあったわけじゃないんだけど、えっと、アロマンティックってわかる?」
「うーんと……たぶん聞いたことない」
菜々姉が慎重に言葉を選んでいるのがわかった。そんなに緊張してくれなくていいのにと思いつつ、わたしも何をどう喋ったらいいかにいっぱいいっぱいで、菜々姉の緊張をほぐす方まで口が回らない。
「アロマンティックっていうのは、セクシュアリティ、じゃないのか。えっと、誰のことも恋愛で好きにならないっていう、そういう人のこと。好きにならないようにするんじゃなくて、自然とそうならないっていうか」
「うん」
「わたしもそれだなって思って、これまで誰かを好きになるって、恋愛で好きになるってなかったけど、これまでだけじゃなくてこれからもないなって思う。だから菜々姉と恋バナできることもないと思う。ごめんね」
「藤音ちゃんが謝ることじゃないでしょ」
菜々姉はいつも通りの声でそう言って、それから数拍を置いた。わたしが何も言い足さないのを確認すると「まずはさ、話してくれてありがとう」とゆっくり静かな声で話しだした。
「私がずっと、恋したら教えてねって言うから教えてくれたんだよね。緊張したよね。なのに話してくれてありがとう」
「……別に、義務感とかじゃないよ。ただわたしが、これからは『うんいつかね』って言えないなって思って……だから菜々姉こそ聞いてくれてありがと」
「ああ、そっか。うん、それならますますありがとうだ。私に、藤音ちゃんに嘘をつかせないでくれてありがとう」
菜々姉の声はすごくやわらかくて、わたしはまだ緊張してもいたけど、同時にすごく安心もしていた。菜々姉が菜々姉の全部でわたしとわたしの話に向き合ってくれているのがわかったから、怖がることはなかった。
それから菜々姉は少し考えるように間を置いて、「あのね」と切り出した。
「たぶん、私はまだわかってないこともあると思う。帰ってから調べてみるつもりだけど、それとは別に、いま藤音ちゃんにも聞いていいかな」
「う、うん。わたしも詳しいわけじゃないから、正確に答えられるかはわかんないけど」
「ああ、用語の知識とかそういうことじゃなくてね。私が恋愛の話をするの、嫌だった?」
「それは違う!」
菜々姉の少し固い声に反射的に声をあげた。違う、それは違うよ。
「嫌だったらちゃんと嫌って言うし、そもそも別に嫌じゃないよ。菜々姉の恋の話を聞くのも、いつか恋バナしようねって言ってもらうのも、嫌じゃなかった。むしろ嬉しかったし、今もそれを嫌になったりはしてない」
「だったらよかった……他に嫌だったこととか、今は嫌だなってことがあればそれも聞かせてくれる?」
「うーん……別にないかな」
いつか恋をするだろうという前提で振る舞われるのは嫌だけれど、今こうして話して、受け止めてくれた以上、それはきっとない。だったら他にはなにも、あれが嫌だとかここを変えてほしいとか、そういうことはなかった。
「わかった。じゃあこれからも話したくなったら私の話はするね。でももし、やっぱり嫌だなってなったら教えてね。他のことでもだけど」
「うん。ちゃんと言う」
「あー、そこを気負わなくていいし、黙っておきたいことまで無理に話してほしいわけじゃないんだけど……私が何かに気づいてなかったときに、やり直せるように教えてくれたら嬉しいなって」
「うん、わかった。でも、菜々姉こそ気負わないでね。別にわたし、なにかがめっちゃ変わったってわけじゃないんだからさ」
「うん。でも、うん、あらためてこれからもよろしくね」
「なにそれ。こちらこそ末長くよろしくお願いしますだよ」
ちょっとおどけたみたいに、でもたぶんお互いに本心で挨拶を交わす。そのいつも通りの空気感にほっとして肩の力が抜けて、いつの間にか体に力が入っていたのがわかった。ぼんやり前方を眺めながら軽く首を回したりしていると、ふと気づいた。ここ、行くはずだった定食屋さん通り過ぎてる。あれっと思って菜々姉のほうを見ると、菜々姉はのんびりとウィンカーを出して車線を変え、車を左折させるところだった。
(ああそうか、話し終わるまでお店に着かないようにしてくれてたんだ)
お店の位置に対して長すぎたドライブに今さら気がついて、菜々姉のその優しさにちょっと泣きそうになった。お店、予約してるわけじゃなくて良かった。
菜々姉は免許を取りたての頃から、よくドライブに連れて行ってくれた。行き先は隣の市のちょっと大きなショッピングモールだったり、美術館や博物館だったり、単館の映画館だったり、いろいろだ。
どこに行くときも、どこから帰るときも、車のなかでたくさんお喋りした。話題はなんでもよくて、菜々姉とお喋りするその時間が好きだった。いつかそのなかで「あのね、菜々姉に最初に教えてあげるんだけど、好きな人できたんだ」と話す日を夢想したこともあったけど、その日は来ないと知ってさみしくも思ったけど、他にも菜々姉と話したいことはたくさんある。この間の旅行のこと、最近見た映画のこと、バイト先の珍騒動、面白かった講義のこと、菜々姉の恋のこと。話したいことも、聞かせてほしいことも、たくさんある。分かち合える楽しいことが、わたしたちの間にはたくさんある。じゃあそれでいいや、いいじゃんと思って、わたしは「あのね」と菜々姉の横顔に話しかけた。