女ではある、けれども。 ──〈見なされる性〉を考える

Dr.ギャップ
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公開:2025/6/11

自分はずっと女でいます。

出生時に割り当てられた性も、自認も、戸籍上の性別も、どれひとつ揺らいだことがありません。いわゆる「シスジェンダー女性」であり、上にあげた性たちの間にずれはありません。

ただ、その、言葉にするのが難しいのですが、「女であること」に居心地の悪さのようなものをずっと感じています。別の言い方を試すと、「女であることを思い出させないでほしい」とか「女として眼差さないでほしい」というのが近いです。

もうちょっと具体的に並べてみます。自分にとって何が嫌なのか。

たとえば、ショッピングサイトの会員登録のための性別欄で「男」か「女」のどちらかを必ず選べとされるのが嫌です。もしこれが任意回答なら無回答、選択必須でも「答えない」や「その他」があればそちらを選びます。

アパートで害虫騒ぎがあったとき、管理人さんに「女性ならなおさら嫌ですよね」と言われるのも嫌です。どうして今、そこで、「女性なら」なんて言われなきゃいけないのか。関係なくない? と思います。親身な仕草でそんなことを口にしないでほしいのです。

男性に見える相手を「○○くん」、女性に見える相手を「○○さん」と呼び分ける態度も苦手です。これは呼ばれる対象が自分ではなくてもそうです。そんな風に線を引いていいの、と思うからです(呼びかけられる本人が希望しているのであれば気にしません)。誰に対しても「○○さん」を使うという方法を知ってから、自分はそうするようにしています。

日本語で行う授業においては、性別による呼び分けを止めること(性別を問わず「さん」とするなど)を、東京大学は教職員に対して推奨しています。

東京大学における性的指向と性自認の多様性に関する学生のための行動ガイドライン より

嫌なこととしてすぐに思いつくのはこういうことです。他に、ブックオフではなぜか少女漫画コーナーに入るのが苦手というかためらう気持ちがあったりします。商品説明で「女性に/女性にも人気」という言い回しがあると、やはり手に取るのをためらいます。古着屋でメンズコーナーを見て回るのは平気なのに。

でも、そう。自分の〈自認する性〉はずっと女です。性別欄だって、病院や宿泊施設であれば屈託なく「女」を選びます。何を答える必要があるのか、どうしてこの場でそれを答えなければいけないのか分かるからです。

自分が男の子だったら、と思ったことはあります。小学生から中学生くらいまで、そんなことをぼんやり思うことは何度もありました。男の子に間違われるのは嫌じゃないという感覚もずっとありました。高校の制服を買いに行ったときに「男子制服の値段表はこちらですよ」と言われたのも、大学生の時に散髪してもらったら男性料金で会計されたのも、よく覚えています。直近で男に間違われたのは去年の選挙でのことで、投票券の発行ボタンのうち「男」の方を押されたのが見えました(本人の目の前で、本人に見えるような形で、外観だけから勝手にその人の性別を判断するシステムは本当にどうにかならないのか、と思って選挙を管理している組織に意見を送りました)。

男に間違われるのは昔から嫌じゃありませんでしたが、「他者の性を外からジャッジすることそのもの」への違和感や嫌悪感を持つようになって、男に間違われることにも違和感を持つようになりました。女ではない存在として捉えられるのはやっぱりちょっと嬉しいけど、勝手に性別を判断するという行為に不躾さを感じもします。

自分にとって〈自認する性〉は女です。「自分は男だ」とか「自分は女でも男でもない」と思うことはずっとありませんでした。なんでだろう、とたまに思います。女だとされることがこんなにはっきりと居心地悪いのに、それは自分が自分を女であると思っているからこその居心地の悪さだな、と思うのです。この居心地の悪さは、自分が女で、でもそうとは気づかずに過ごしていたいのに、そうだぞと思い出させられるからの居心地の悪さなんだろう、と。

大学でジェンダー論に触れたとき、いわゆる「性別」というものは複数の位相から成り立っていると習いました。たとえばそれは〈出生時に割り当てられた性〉であり、〈自認する性〉であり、〈性表現〉である、と。

これはあくまで自分がどう把握しているかというざっくりしたメモ程度の内容です。

このうち特に〈自認する性〉や〈性表現〉や〈身体の性的特徴〉は「男-女いずれか」という形を取るとは限らず、様々なグラデーション的な在り方もあります。

〈出生時に割り当てられた性〉

生まれたときに判断されて戸籍に登録された性。

〈法的に登録されている性〉

現在の戸籍に登録されている性。おおよそ〈出生時に割り当てられた性〉と同一の場合が多いが、そこから変更されることもある。

〈身体の性的特徴〉

胸の膨らみやヒゲの有無、外性器や内性器の在り方など。日常生活で外から見て分かるものもあれば、そうではないものもある。

〈自認する性〉

本人が自分の性をどう捉えているか。

〈性表現〉

ファッションや言葉遣いなど、その人が自分の性をどのように表しているか。

この他にもいろいろな位相があり得る……というより、性について考える際に導入すると便利な位相がいろいろあると思います。

* 性の位相分けについて、ネットで読めるものとしては以下の記事が丁寧かつ自分の把握や感覚とも近いです。

高井ゆと里「『心の性』と『身体の性』をやめるべき理由」『ゆと里スペース』

自分は〈法的に登録されている性〉も〈自認する性〉も女です。そこに乖離はありません。そして〈性表現〉は男女どちら寄りとも言い難いように思います。二十歳くらいまではスカートが苦手でズボンばかり履いていましたが、最近はスカートを履くこともあります。ただそれが「女として」選んでいるファッションかというと悩みます。スカートが苦手だったのは「女の子のもの」と思っていたからでしたが、一方で、今の自分がスカートを履くのは「女の子のもの」を身につけることを自分に許せるようになったからというよりは、「女の子のもの」と思わずにスカートを履いたっていいんじゃないか、と思うようになったからのような気がします。

少し話が逸れますが、自分が一人称に「自分」を使っているのは、「私」に馴染めなかったからです。理由は、スカートを「女の子のもの」と思って避けていたのと近いです。加えて、「私」を使うことには「女として名乗る」ニュアンスを感じているのかもしれません。男性でも「私」を使うと知っているのですが、男に間違われることもあるとはいえひとまずはシスジェンダー女性である自分が「私」を使うのは、そういう「女としての文脈」に自分から乗っかっていくことになるのでは……それは嫌だな……みたいな感覚があるような……

ただ、自分は髪を短くしていて化粧っ気もなく、服装も女性らしい雰囲気ではないことが多いので、自分の意識や意図はさておき、周囲からは「男っぽく」見えることも多いだろうと思います。

そう、「見える」。「見える」の話です。

もし、性の位相のなかに「見える」性──〈見なされる性〉というものを置くとしたら、自分はこの〈見なされる性〉を女でも男でもなく、ノンバイナリーのようなところに置きたいのだな、と思います。〈法的に登録されている性〉も〈自認する性〉も女だけど、周囲からは女と見られたくない。自分が女であることを思い出させないでほしい。性別のことは放っておいて、忘れたままにさせてほしい。スカートを履くこともあるけれど、それは「女」であることを表現したいわけじゃないってことを知ってほしい。

「男」と見なしてくれても構わないけれど、でもそれは自分の〈自認する性〉でも〈法的に登録されている性〉でもないから、なにか勘違いをさせてしまっている──騙してしまっているような気がして申し訳なくもあるので、「女」として見られたくないのとは別の理由で、「男」と見なされるのもやや困ります。ズボンでもスカートでも髪が長くても短くても「女」とか「男」を忘れてほしい。

かつて自分が男の子と間違われるのが嬉しかったのは、「女の子と見なされない」のが嬉しかったからで、そして当時は「女の子と見なされない」を「男の子と見なされる」としてしか捉えおおせなかったからで、「男と見なされたい」わけではないんだなと今の自分は思います。

上で紹介した高井ゆと里さんの「『心の性』と『身体の性』をやめるべき理由」では、〈生活上の性別〉という位相から性の在り方を説明しています。たとえば職場や家庭でどう扱われているか、映画館の会員登録をどんな性別で登録しているかが〈生活上の性別〉の例として挙げられています。

自分の思う〈見なされる性〉は、この〈生活上の性別〉に近いように思います。でも少し違う、とも思うのは、自分が重く見ているのが「自分がどう振る舞うか/自分の性をどう他者に扱わせるか」よりも「他者が自分の性をどう見なしどう扱うか」という部分にある一方で、〈生活上の性別〉は前者も後者も等しく含んでいるように感じられるからだと思います。

そう、自分が“そう”振る舞いたいのかというと、微妙に違うのです。そういう風に「見なされたい」のであれば、そういう風に「振る舞う」のが戦略的に妥当であるというのは理屈として正しいでしょう。でも、だとしても、自分のなかでは「ノンバイナリーとして振る舞いたい」はおろか「ノンバイナリーに見られるよう振る舞いたい/そうしなければならない」という気持ちはなくて、ただただノンバイナリーのように──男や女といったものを別のところに置いて扱ってほしい、という気持ちだけがあるのです。たとえ自分がどんな体で、どんな格好で、どんな生活をしていたとしても。

これって我がままなのかな、と、ふと思います。でも、そうしてもらえてると感じることはあるもんな。特別なことをしてほしいわけじゃなくて、余計なことをされなければ十分で、今でも嫌なことに出くわす場面はそこまで多いわけじゃないんだけど、でも「余計なこと」の線引きって人それぞれだったりするだろうもんな。

だから、と続けていいのか悩むのですが、自分は、トランスジェンダーやノンバイナリーの方をどうにも他人ごとには思えずにいます。差別の解消や権利の保障を、過ごしやすい社会の形を、と強く思います。

「こう見られたい」と「そう見られる」の間にあるギャップとか、性別ってそんなに自明でかつ当然のように見なしたり示したりするものなのかとか、「男か女か」ではないところにもスペースはあるだろうとか、そういう部分への屈託なんかに、同じとまでは言えなくても似たものがあるんじゃないかと思うので。

そしてこれは自己中心的な言い方かもと思うのですが、トランスジェンダーやノンバイナリーの人にとって過ごしやすい社会は、自分にとっても過ごしやすい社会だろうなと思います。そして、これらの人々と自分はまったく「同じ」ではないし、そこを見誤ってはいけないのだけれど、でも、違っても違うままで屈託の共有や連帯ができたら嬉しいよなと思います。そのために何ができるだろう、とも思います。「連帯!」と同じ横断幕を持って歩くんじゃなくたって、今だってこの社会を一緒に過ごして、そのなかで未来のためにできることをそれぞれにしたりしているんだよな、それも連帯だよな、とも思いつつ。

@dr_gaap
短歌と読書と二次創作と旅行と美味しいものが好き。いま一番ハマっているのはアプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》です。短歌で楽しいことをするのも好き。クワロマンティックでアロマンティックでアセクシュアルです。 感想などいただけたら嬉しいです。→wavebox.me/wave/94ufrrxytf5hliop