可愛さと採点と恋愛 恋愛指向と屈託の話

Dr.ギャップ
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公開:2024/6/23

クワロマンティック・アロマンティック・アセクシュアルであることで嫌な思いはしてこなかったけど、そこにつながる屈託はあって、今回はその屈託の話をします。


※この記事では自分の外見の美醜の話をたくさんしています。また、それらを恋愛の文脈にのせての言及もあります。「可愛くない」にしんどくなる予感のある方はご注意ください。

※「自分は可愛くない(と扱われてきた)」という話をしていますが、そしてそれは小さくない屈託を形成していますが、「だから自分が嫌い」とか「人生が辛い」ということはちっともなく、それはそれとして楽しく暮らしています。あまり気を揉まず気楽に読んでやってください。


まず、屈託の中身なるべく端的に説明するとこんな感じです。

(クワロマンティック・アロマンティックなどAスペクトラムの苦痛の経験として一つの典型のようなものである、と自分が捉えている)「恋愛規範の圧を受ける」とか「恋愛に巻き込まれる」という経験が自分にないのは、自分がその醜さゆえに恋愛的な価値が低いとみなされているからでは? という想像が働くときに「自分が醜いとみなされていること」を思い出してしまう、という屈託。

この記事では、この屈託のことをなるべく整理して説明します。もともとこの話題は人に見せられるレベルで整理できる気があまりしなくて、だったら飛ばしてしまおうかと思ってもいました。どんよりした話になりますし。でも自分の恋愛指向や性的指向にまつわる「いるよ」を掲げるなら外せないかと、そう思いなおしてぼちぼち書いています。どこから話したものかなぁ。しかしともあれ明るい話ではないので、「そういう人もいるのか~」とのんびり思えるタイミングで読んでもらえたらと思います。屈託の話なので明るくはないし、特に結論や改善策めいたものの提案もない記事です。別にこの屈託を解消したい、という積極的な気持ちがあるわけではないので。

さて。まず「恋愛規範の圧を受ける」とか「恋愛に巻き込まれる」をもう少し具体的に説明すると、たとえば自分は恋愛対象としてアピールを受けた心当たりもないし、告白だってされたことがないというだけではなく、「好みのタイプは?」とか「気になる人はいないの?」といった恋愛絡みの話題を振られることもほぼないまま過ごしてきました。この「ほぼ」は「思い出せる心当たりはないけど“まったくない”は悪魔の証明になるから一応付けとくか」というレベルです。

で、それがなぜかということに考えを巡らせると、「自分が可愛くないからだろうなあ」と反射的に思います。可愛くないから恋愛対象としては見なされず他人のそれに巻き込まれず、また恋愛に縁のない存在として捉えられてるから話題も振られないんじゃないかなぁと。他にも理由はあるのかもしれないけど、自分は「可愛くない」という見なしを長らく受けてきたし、その見なしを「妥当だ」と受け入れてしまってもいるので、「可愛くないから恋愛に巻き込まれないのだ」という論理が手近になっているのだと思います。実際に何が原因かは特定できないだろうとも考えたうえで、推測として手近かつ妥当だと選んでしまうのがこれ、という。

ただ、いったんここで主張しておきたいのは、自分にとって「可愛くないから恋愛と縁遠い人生になっている」ことが屈託なのではないです。もう少し細かく整理すると、

  1. 「可愛さ」が「採点項目」として位置づけられていることへの屈託がある。

可愛さにおいて自分の点数は低い(という他者/自分の見なし)に加え、その採点はしばしば勝手になされるものである、という意識から「採点」への屈託というか忌避感があるのかなと思います。勝手に見た目をジャッジされるのがそもそも嫌だし、そこで低い点数をつけられるのでますます嫌。

  1. 上記の「可愛さ」に基づく採点が何の点数になっているかについては、異性愛規範を前提とした「女としての」価値のようなものだと感じている気がする。

  2. 2と1から「恋愛領域で価値がないとみなされている(ように感じる)自分」を意識するとき、同時に「可愛さにおける自分の点数の低さ」や「可愛さを採点されていること」を意識することになる。これが嫌。

どうにか整理したつもりなのですが伝わっているでしょうか……? 自分でもなんとなくでしか掴めていないものを無理やり気味に言葉と理屈に押し込んでいるので読みづらいと思いますが、もう少し説明を続けさせてください。

自分は恋愛をしたいとは思わないですし、パートナーや子どもがほしいとか必要だと思ったこともありません。モテたら気分が良いかもと思わないでもないですが、トラブルにつながるだろう予感がはっきりするので、おそらくモテない方が平和です。さて、それなら恋愛的に価値が低いことをネガティブにとらえる必要はないのでは? むしろ恋愛に関する自分の興味関心欲求のなさと現状が合致していてラッキーなのでは? と自問しても、そうだねと頷けないのも確かなのです。なぜ?

まず、自分が恋愛的に価値が低いことそのものに対しては特段ネガティブな気持ちにはなりません。「女としての価値」についても、ほとんど異性愛規範を前提とした場合での「恋愛的な価値」と思えば同様です。そこはなんかもう、そもそも「恋愛」は自分事として視界に入ってないので、価値が低いと言われても「そうでしょうね……?」(知らんけど)という感じです。

(社会が恋愛的に価値の高い存在をよしと振る舞ったり、そうした価値観を広めたり再生産したりすることの是非はここでは置いておきます。そもそも恋愛的に価値が高い方が良いという見なしがなければ良いのでは……? という気はしてきましたが、ついでで語りきれるものではないので)

でも、「恋愛的な価値の低さ」を通じて自分の見た目の醜さを思い出すのははっきりと嫌です。こう、どんよりするというか、そこにあるのは知ってたけど見たくないから無視してたのに、視界にさえ入れなければ楽しく過ごせるしそれで周りに迷惑もかけていないはずなのに、ああ目に入っちゃったなぁみたいな。自分は低い点数しか取れないとわかっている試験を喜んで受けにいく性格ではないです。

ちなみに高得点がほしい(可愛くなりたい)とは特に思わないし興味もないので(ここにももうひと屈託ありますが話題が逸れるので割愛)、「可愛くなろう、おしゃれしようよ!」方向の声かけは嬉しくないです。ただひたすらそこの採点をスキップしたい。勝手に採点しないでほしいし、点数の多寡にかかわらず採点されているんだなと思わせないでほしい。それだけ。あと「可愛くなくてもそのままの自分を好きになろうよ!」もなんだかな……と思ってしまうタイプです。これまで「可愛くない」を刷り込んできたのはそっち(自分じゃない人)なのに、今さら「自分で自分を好きになろう!」と言われましても。

ここまでどうにか整理してきたつもりですが、この通り自分の屈託は恋愛指向や性的指向に根差すというわけではなく、主に外見やそれにまつわる他者からの視線を由来としています。ではなぜこの連載でこの話をしているか、記事を書いておくべきだと思って自分が重い腰を上げたかというと、いったん冒頭に戻ります。

(クワロマンティック・アロマンティックなどAスペクトラムの苦痛の経験として一つの典型のようなものである、と自分が捉えている)「恋愛規範の圧を受ける」とか「恋愛に巻き込まれる」という経験が自分にないのは、自分がその醜さゆえに恋愛的な価値が低いとみなされているからでは? という想像が働くときに「自分が醜いとみなされていること」を思い出してしまう、という屈託。

この「恋愛規範の圧を受ける」とか「恋愛に巻き込まれる」という経験が自分にないのはなぜかという思考が発生するのは、たとえばアロマンティックやクワロマンティックなどAスペクトラムの方の語りや、そういうキャラクターが登場する物語などに触れたときが多いからです。あの人は、この人も、恋愛規範の強さや他者の恋愛に巻き込まれたことを苦痛や困難の経験として持っている。じゃあ自分は? という。

また重ねて、

  1. 「恋愛規範の圧を受ける」や「恋愛に巻き込まれる」をAスペクトラムの経験の一つの典型のように捉えているため、自分がそれを持たないことになんとなく疎外感のようなものを感じる。

疎外感なんか覚えてる場合じゃね~!とは思うんです。それも本当なんですよ。でもたとえば比較的知名度の低い作品にハマってなかなかそれについて語れる人がいなかったときに「それ読んでるよ!」って出会いに喜んで、でもそうして出会った人たちのなかで自分とは違う作品の捉え方が主流になっていたら「あー……」となるよねというか。「こういうことがあってさあ」「わかる~」というやり取りができる人たちじゃなかった、と思ってガッカリしたりさみしく思ったりするのかもしれません。別にその一点で「わかる~」が何もかもできなくなるわけではないのですが。

  1. 恋愛規範に抗うための連帯であれば自分にそうした経験がなくてもできるはずであるしするべきである。であれば1のように疎外感を感じるのは場違いではないかという意識と「でもさみしいよね」という気持ちの葛藤がある。

「こういうことに困っている・苦痛だった」という語りは、「だからそれを改善してほしい/したい」と広める側面もあると考えます。だからそこに「でも自分は……」とこぼすのは、より良い未来や社会のための言葉や行動に横槍を入れるような後ろめたさがあるし、そもそも自分が恋愛指向や性的指向を理由に傷ついてこなかった=「恵まれた」ほうであるという後ろめたさもあります。

でも、だからといって自分の話ができないのはさみしくて、誰かに聞いてほしい気持ちもあります。ところかまわず「でも」という話をすると邪魔になってしまうかもしれないけど、邪魔はしないよ、この話を聞いた人もそうしないでね、むしろ一緒に進んでいこうと言い添えて、自分の話を少しだけさせてほしい。もちろん、恋愛を自明としない社会や人々の在り方が必要だと自分も思うし、そのためにできることはするべきだ、しよう、とも思います。同じじゃなくても連帯はできるし仲間にもなれる。そのはず。

そういう感じです!

あともう一つだけ付け加えると、「可愛さ」と「恋愛への巻き込まれなさ」が常にトレードオフである(だからどちらかが犠牲になるのは仕方ない)という風には誰にも捉えてほしくないし、そういうつもりでこの文章を書いてはいないです。欲しいもいらないも自分の意思で選んで、望んだように生きられるべきじゃないですか。いま手元にあるものが違っても、望む先が違っても、それぞれ元気に楽しく暮らせるべきで、そうあることを望みます。


アロマンティックやクワロマンティック、アセクシュアルの人の話を決してたくさん読んだり聞いたりしてきたわけではないけれど、恋愛が当たり前みたいに振る舞われて困る、恋愛に巻き込まれて嫌だった、みたいな話以外も聞きたいなとぼんやり思っていました。「この恋愛指向だからなにってこともないんだけどね。そもそも恋愛に巻き込まれるってことがなかったし」っていう人はいないのかな、と思ったり。

だから「こういうクワロマンティック・アロマンティック・アセクシュアルの自分がいるよ」という連載をするなら、この記事で取り上げた話はその根幹にあたるし、まあそういうのもいるんだなと思ってもらえたら、似たような誰かがいなくても十分嬉しいなと思います。「こういう苦痛や困難があるのでなくしていこう」の邪魔はしたくないし他の人にもしないでほしい、むしろ一緒になくしていこうよと表明するので、「いるよ」をさせてください。

なお冒頭の繰り返しになりますが、自分は可愛くない(可愛くないものとして扱われてきた)と感じていますが、「だから自分が嫌い」とか「人生が辛い」ということはちっともなく、「それはそれ」という感じで楽しく暮らしています。どうぞなーんにもご心配なく!

ここまで読んでくださった方も、どうか楽しく健やかな毎日でありますよう!


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@dr_gaap
短歌と読書と二次創作と旅行と美味しいものが好き。いま一番ハマっているのはアプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》です。短歌で楽しいことをするのも好き。クワロマンティックでアロマンティックでアセクシュアルです。 感想などいただけたら嬉しいです。→wavebox.me/wave/94ufrrxytf5hliop