【短歌の話】二つの逆接の先で一緒に過ごす

Dr.ギャップ
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公開:2025/9/27

でもきみでなくてもよかったということ暮れる川辺でいつか話そう

山中千瀬『死なない猫を継ぐ』(典々堂, 2024年)

〈きみ〉に対する嬉しさとか、ありがたさとか、慕わしさとか、情とか、信頼とか、こういう言葉だけではどうしたって足りない温かく強い感情を感じて好きな短歌です。〈きみでなくてもよかった〉という言葉は、もしかしたら一般的には冷たいものとして受け取られてしまうのかもという感覚があり、そこに対する「そんなことないよ!!」の強い感情がこの歌への思い入れになっている部分がある気がします。

〈でもきみでなくてもよかった〉は、ひっくり返せば「きみでなくてもよかった。でも(実際にこれまで一緒に過ごしてきたのは/いま隣にいるのは)きみだった」ということだと受け取りました。そしてそれはすごく嬉しいことだと思います。運命とか偶然とか必然とかの話ではなく、きみと一緒にあれたことそのものへの喜びと感謝。

また上にも書いた通り、「きみでなくてもよかった」という言い回しは冷たいと受け取られかねないものだという感覚があります(そんなことないと自分は思うけど)。でもそれを直接〈きみ〉に〈いつか話そう〉と思えるのは、それを〈きみ〉が受けとめてくれるだろう、それが〈きみ〉を蔑ろにする発言ではないと理解してくれるだろうという信頼があるからだと考えました。また〈いつか〉ということは、その日まで〈きみ〉と縁が切れていないだろう見込みがあるということだろうとも思います。そういう〈きみ〉への感情や二人の関係性を、とてもいいなあと思います。

この歌を読むとき、「君じゃなきゃダメだ」という言葉が頭をよぎります。世間的にはこちらの言い回しのほうが一般的で、甘いフレーズとして流通していると思います。自分自身も「君じゃなきゃダメだ」という言い回しに甘やかさを感じたりやうっとりしたりする気持ちもあります。創作物のなかならなおさら。でも、実際にそれを向けられることを想像すると少し身を引きたくなる気持ちもあって、その気持ちを抱えながら振り返ると〈でもきみでなくてもよかった〉という言葉にいっそうの嬉しさや安心の気持ちを覚えるのです。自分じゃなくてもよかった。でも自分だった。それは、安心のうえにある喜びだなと思います。「君じゃなきゃダメだ」とは別の、「いいなあ」と感じる感情で関係性です。

そして、この読み方と感想の背後には、モノガミー(一夫一婦制。あるいは夫婦に限らず、男女に限らず、パートナーを一人だけに定める恋愛のスタイルのこと。対義語としてポリガミーがある)を当然のものとすることに対する、うっすらとした不信感めいた自分の感覚があるような気がします。恋愛に限らず、人間関係においてきみが大切で、あるいは特別だったとして、そのことと「他の人ではダメ」であることの間にどの程度の妥当性や必然性や因果関係があるのだろう、というような。

「きみ」と「あの人」、あるいは「きみ-1」と「きみ-2」にはそれぞれ別の大切さと特別さがあるんじゃないの、と思ってしまうから。あるいは人間関係における「特別さ」ってなんだろう、という呑み込めなさのような感覚があるから。だから「君じゃなきゃダメ」はどこかで「でも君でなくてもよかった」とセットのような気がしてしまう。自分にも特別と呼びたい人はいるけれど、それは一人ではないし、特別な人たちどうしをその特別さだけで比べるのも難しいというのは、「君でなくてもよかった」を冷たく感じる人からすると言葉遊びに見えてしまうのだろうか。

この短歌は〈でもきみでなくてもよかったということ〉を感じている“私”と、それを受けとめてくれるのであるだろうと“私”に思われている〈きみ〉の二人が二人とも、こうした「君は確かに大切で特別だけど唯一ではないよ。そしてそれは君の大切さや特別さを損なうものではないよ」という感覚に頷いてくれそうで、そこに感じている居心地の良さがあるような気がします。そしてまた、それでいて今ここにいるのが〈きみ〉であり“私たち”の二人であることを二人とも嬉しく思っていそうで、その明るさにも嬉しくなるのです。

@dr_gaap
短歌と読書と二次創作と旅行と美味しいものが好き。いま一番ハマっているのはアプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》です。短歌で楽しいことをするのも好き。クワロマンティックでアロマンティックでアセクシュアルです。 感想などいただけたら嬉しいです。→wavebox.me/wave/94ufrrxytf5hliop