自分が「そう」じゃないかと気づいたとき──アロマンティック・アセクシュアル・クワロマンティック

Dr.ギャップ
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公開:2024/6/8

 アセクシュアル/アロマンティックという言葉を知ったのは、二十代半ばのことでした。大学で受講していたジェンダー関連の講義で知って、こういうのがあるのか、自分はこれかもなぁと思いました。

 クワロマンティックという言葉を知ったのはもう少し後で、『13歳から知っておきたいLGBT+』がきっかけだったと思います。そのときにこれだと思ったんだったか、そのときは素通りしたんだったか……明確に意識するようになったのは、たぶん中村香住さんの「クワロマンティック宣言」を読んだときで、アロマンティックよりこっちな気がする、でもちょっと違うかも……? と思い、今この文章を書きながらも、どの言葉を使ってどう説明するのが正確というか、相手に対して齟齬が生まれないのかなあと思っています。

 アセクシュアル/アロマンティック/クワロマンティックという言葉に初めて触れたとき、いつだってぼんやりした「これかもなぁ」でした。「これだ!」という断定にならなかったのは、自分の恋愛や性愛に関する在りようを、それらの言葉を知る前から自分なりに言語化して把握していたからかなと思います。そうして把握していた感覚と、新しく知った言葉のイメージの間には多少の齟齬があって、だから「これだ!」とはならなかったのかも。

 自分の場合、言葉を知って「そう」と気づいたわけではなく、自分が「そう」であることはずっとなんとなく知っていたのだと思います。言葉とともに気づいたことがあるとするなら、「“そうであること”を名指しうる単語があること」がその対象なんだろうなと。一方、言葉を得て変わったことがまったくないわけではなくて、たとえば次の三つが思いつきます。

  1. 「自分はそうである」の「そう」の中身が整理された

  2. 「そうであること」がセクシュアルマイノリティの範疇にあるという認識が生まれた

  3. 「そうであること」を他者と共有するための単語があると気づいた

 1.は具体的には、それまで「恋愛に関心がない=自分ごとにしろ他人ごとにしろ、恋愛という行為やイベントへの関心が低い」と捉えていたのが、「誰にも恋愛感情が向かない=自分は恋愛という領域において他者へ関心が生まれない」、「そもそも恋愛感情というものがピンとこない」として捉えなおすことになりました。恋愛をしたいとかしようと思わないことと(行為に関すること)、誰にも恋愛的に惹かれなかったりそもそも「恋愛感情」がピンとこないこと(感覚に関すること)は別のことなので、ここが整理できたのはよかったなと思います。

 3.の「共有」はちょっと曲者で、自分の場合、クワロマンティック・アロマンティック・アセクシュアルと聞いて想起されるイメージから遠い位置にいる気がしているので(例:恋愛絡みでの困りごとを抱えてはいない)、それら単語で自分を指し示すことにどこか座りが悪いような、落ち着かない感覚もあります。知ったからといって無理に使う必要はないですし、だからこそ「所属を示す名札ではなく自分のことを説明するための手札(の一つ)」という感覚なのですが。一方で目印というか、それらの単語があることで似た感覚の誰かと出会ったり集まったりできるのは嬉しいなと思います。先日の「#アロマンティック可視化の日」にタグ検索をしたらいろんな人がそれぞれにツイートをしていて、お祭りとかパレードみたいで嬉しくなりました。

 タイトルに「気づいた」と入れたのですが、よくよく考えればここまで書いてきたのは「クワロマンティック・アロマンティック・アセクシュアルであると気づいたときのこと」というより「クワロマンティック・アロマンティック・アセクシュアルという言葉の存在を知り、自分の在りようはそれら単語で説明し得ると気づいたときのこと」だったなと思います。自分の恋愛指向・性的指向の在りようそのものに対して「気づいた」と感じたことはなかったように思います。

@dr_gaap
短歌と読書と二次創作と旅行と美味しいものが好き。いま一番ハマっているのはアプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》です。短歌で楽しいことをするのも好き。クワロマンティックでアロマンティックでアセクシュアルです。 感想などいただけたら嬉しいです。→wavebox.me/wave/94ufrrxytf5hliop