西暦2024年12月3日、火曜日。
とある述懐。
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私は現在、機会を得て、この日本という島国列島で人に会い、彼らを観察、観測しています。
なかでも既成社会の枠組み・構造のなかで疑問を抱かず、そのなかにとらわれきった人間というものがけっこうな数、普く存在していて、それらが鳥籠のなかの鳥、あるいは売買される愛玩動物(望ましいと思えない存在)と等しく見えるのです。
人口密集度が高い空間であるほど、その傾向はまた高くなるように見えますが、それは単純にサンプル数が多く、相乗効果を発揮しているだけと結論づけられるのかもしれません。
『パンとサーカス(panem et circenses)』や衆愚という言葉が、紀元前後の古い時代から存在するにも関わらず、依然としてそのパンとサーカスを彼らは欲し、衆愚であり続け、飼い慣らされることを望むのです。
これをすでに唱えられている"自己を家畜化している行為"と表現しても良いでしょう。
そして、この自己家畜化は人の群れにおいてなおも進行中であるように観測できます。
結果的に主体や能動は消え、無思考と受動が残り、一定程度そうであることはまた必然として避けられないようにも見えてしまうことは残念なことです(それもまた多様性)。
もちろん、そうでない人たちも存在しますが、どちらかといえば少数に属します。
籠あるいは檻から脱するためには、ひとえに、
自分が属する構造や当たり前を良い意味で常に疑うこと(クリティカル・シンキング) ※攻撃破壊的、排他的であれということでは決してありません
各々が現在の自分自身がこうでありたいという自己認識を持つこと
多くの物事に自ら触れ、俯瞰力(メタ認知能力)を自然から養うこと
が必要であるのかもしれません。
根拠の薄弱な二元対比対立論や分類単純化を無責任に口にすることは、往々にして安易で安直な思考停止です。
肥大化した自意識しか持てないことは、人と人との結び付きの妨げになり得ています。
我々が生きる世界を構造としてとらえるなら、人はどこまで行っても入れ子状に、カプセルのなかのカプセルという構造の虜であり、奴隷であることから逃れることは叶わないかもしれません。
本人が満足ならそれでいいのです。
それはそれで何も止めません。
しかし、わずかでも「これでいいのか?」と違和感や疑問を感じるなら、それに基づいて行動してみること、ある種の抗いを試みることもまたひとつの手段であり、生き方なのかもしれないと思う次第です。
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