話術なのだ

dr.kaminoke
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生成AIが「普通」を生成できるようになった時代において、テキストコミュニケーションは価値を失うだろう。

例えば、LINEコミュニケーションを考える。

  • 「この人に今なんて言ってあげたらいいんだろう」

  • 「この人から嫌われないようにするにはどうしたらいいんだろう」

  • 「この人に好意を持ってもらうには何を言えばいいんだろう」

といった、会話の難しさは誰しも経験するはず。

テキストゆえに考える時間は許されるものの、答えに窮するシチュエーションは多く存在する。

そこでLLMを使ってみる。

これまでのコンテキストを読み込ませて、「自分が言うべきこと」の候補を出してもらう。あとは「なるほど!これはいい言葉だ!」と思ったものを、タップして送信。もはや指先での会話ですらない。

相手にとって、それが生成AIが作った返信かどうか分からない。それって実は、言葉の受け手から見ればもはや「ハルシネーション」なんじゃないかって思う。

いよいよ相手が本当に自分の言葉で話しているのかが分からなくなってくる。似たようなことは、LLM登場以前も「友達が勝手にメッセージを送った」とかで発生しえたことなんだけど、LLMがそれを加速する。

AIがサジェストした「愛してる」には、以前までの「愛してる」の価値はない。テキストチャットにおいて、我々は常に「ウソ」の可能性と対峙し続けざるを得なくなる。

だからこそ、人間における身体性の重要度が上がってくる。肉声というインタフェースの持つ力は、これまで以上に重要になってくる。発声技術と共感の演出。

だから、話術が大事だし、落語とかアナウンサーの持つ技術は侮れない。あとふつうに腹から声出したい。

人間がコミュニケーションを取るのは共感のためという側面が強い。主体的な意識が紡いでいるように感じられる言葉も、実はしょせん前提となる背景から自動的に紡ぎ出される言葉だったりする。そうなると余計に、共感を得るための言葉のリアルさには、身体性が重要な役割を果たす。

テキストコミュニケーションは、葬送のフリーレンでいうところの「魔族の言葉」みたいな立ち位置に成り下がるんじゃなかろうか。

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