映画見て、原作のネタバレ見て、原作買って読んでる最中。のでココから下はネタバレのみです。ご了承くださいな。
映画の段階では、「久我は先生側」だと思って見てたんだけど(先生が送り込んだ異物)、最後の「作・久我和幸」で分かんなくなったな…。劇中劇と取れば綺麗なんだけど、先生が送り込んであの流れに久我がしたのかと思ってた。でもそもそも音声とか招待状とかも本多が用意してるということであれば違うんだよな。そこまで見切ってたっていうサイコパス探偵でもありかなとは思うんだけど。全部久我の掌の上。雅美のことを調べている内にあの4人の因縁を知って、雅美なら、本多ならこう動くのではと読み切っての探偵役、を、本多に投げ掛けてたとしても成立するよなぁ、劇中劇よりは、本当に起こったことを劇にしました、のほうが私が好きなだけなんだけど。ということで映画見終わったあとしっくり来てないから、勢いで原作を買ったという。まだこれ書いてる段階では読み終わってないけど、原作ネタバレツイ見て割と納得はしている。一人称のすり替えは、分かって見てても分からんよなー!小説の醍醐味、楽しい♡取り敢えず最後まで読んでくる前に初見の覚書。
読んできた。しっくり来なかった理由分かった、映画は本多のアリバイ隠しが怪しすぎて、あれで一気に意味分かんなくなったんだ。原作はアリバイ隠しの理由付けがきっちり丁寧にされてるので、最後になるまでそんなに違和感ないけど、映画で急に本多が裏切るの意味分かんなさすぎて、あれで本多の犯人(実行犯)確定しすぎじゃなかった?そもそも「そして誰もいなくなった」から導き出せるものって、全員死ぬ、じゃなくて「死んだと思った人が死んでない」なので、私はあの時点では温子が生きてて犯行に回ったんだと思ってたんだけど。(被害者と犯人の時系列のズレというか)どのみちあのアリバイのせいで、本多が犯人だと確信してしまった…もっとなんか…なかったんか…?
原作との違いとして「盗聴のみ」「下半身不随の理由」「久我の独白無し」あたりが結構大きくてビックリしたな…。
「盗聴のみ(監視カメラ無し)」、原作は「何故あの山荘じゃなければならなかったのか」がとても丁寧だった。納得感もあるし。その辺、映画ではあまり語られなかった気がするんだよな。監視カメラがあるので雅美の視野確保が理由じゃないし。だから、なのか、本多が犯人だ、の流れがあまりに秒過ぎて(マッチ棒に代わるアリバイの作り直し)あの辺りすんごい「???」ってなったんだよな…すごい違和感じゃなかった?真実か虚構か、を突き詰めて考える瞬間がなかった、のは、映像証拠が残されてたから(久我のビデオカメラ)、だとするとあれを足したメリットってなんだったんだろう、4日目を迎えてなんであんなにあっさりしたんだ、と思ったけどあれか、先生の指示が映画ではあったんだ、原作は死んだ、っていう紙までで。本多が雅美に止まってほしかったから、その後は考えてなかったけど、映画はその後あったもんな…。やっぱり「犯人が閉鎖的空間に、わざわざ他のメンバーも集めて犯罪を行う理由」がわざと曖昧にされた気がする。そう思うとこれははじめから脚本だった、説かな。そもそも雅美の下半身不随も全然別の理由で、雅美に再度脚光を浴びせるためだけに書かれた脚本、東郷が落ち目で脚本が書けなくて、っていうのは映画でも思ったことなので、やはりそこをついてきた久我、というのがしっくり来るかなー。劇団水滸の看板女優、麻倉雅美の復活作を売り込んだ久我、っていうパターン。原作の久我、野心家だし自信家だし。映画の久我も、隠れた野心家だと感じたので、だとすると、設定は本当で、それを聞きつけて脚本書いて東郷と本多に売りつけた可能性もちゃんとある。それが一番私好み。すごいサイコパスだけど、重岡くんにはサイコパスでいてほしいじゃないですか。ね。
「下半身不随の理由」、原作は雅美側にも原因と言うかある程度あるから自殺未遂でイコール感あるけど、映画はただただ被害者だもんな…由梨江はさておき温子が極悪人すぎる。許せるか?許せるのか雅美本当に。あれは殺したくなるでしょう。そういう意味でいうと、映画の雅美は演技だって気が付かないままなんだよね。演劇人、演劇には弱いっていうあれがたまらなく好きなので、演技だと気が付かないいい演技をした温子たちのことを許してしまうのだとしたら、それはちょっと好きだし納得。雅美が板の上に復活するなら、最後まで演技には気がついてはいけなかったんだろうな。
「久我の独白無し」、というか原作の「久我和幸の独白」表記って、雅美視点のすり替えのための表記だったとしても、原作でめちゃめちゃ特徴的だし、原作派はあれ(久我はあの思考をしている)を大前提に映画見るとすると、独白が映画でなかったということはやはり映画の久我は「部外者」なんだと思いたい。理由は私がそっちのほうが好きだからです。シンプルに。「部外者」は劇団水滸のメンバー外、ではなく「演者」ではない「脚本家」ないし「犯人側」「推理される側」というニュアンスであって欲しいよな〜!個人的な願望。でもそう取れる仕組みにはしてる気がするけど。多重構造が売りだし、解釈の余地はこのくらい許されたい。なんでもかんでも「答え」が決まってることが全てじゃないぞ!エンタメなんか!
何パターンか考察できる話かなーとは思う。映画見ながら、推理とかじゃなくて、こうだったら良いのに、って考えてしまって(例えば今回だと、重岡くんは仕掛け人側だったらいいのに、とか、誰も死んでなければいいのに、とか)、自分で本来の面白さを濁らせてしまっている気しかしないのだけど。映画でスッキリしなかったところも、原作読んで解決したので満足!本当は同じ作品なら原作読まなくても単品で分かるように作れよ、とは思うけど、これ別物すぎる。オマージュじゃん、最早。だから原作知ってる人が引っかかるような作りになってるし、どっちも履修して初めて完成するような、表裏一体の作品なんだなーと。メディアミックスの意味がある、文章だから仕込めるトリックと、映像だから仕込めるトリックと、それぞれちゃんと、「そうでなければならない」形になってて気持ちがいい。映画だけ見終わったあとはめっちゃムズムズしたけど、今すんごいスッキリしてます。原作読んで良かった〜!
等と書いていたら2:30ですね。興奮しすぎました。久々に長い文章書いて楽しかったな。取り留めもない自分メモですけど、こういう自分が読み返して楽しい記録はつけていきたいなと思いました。以上です。