流行語として取り上げられることこそなかったけれど、「運営」という言葉はある時期から急によく聞くようになった。アイドルの台頭によって新しい意味を纏い一般化したように思う。言葉が新しい意味を持つようになる時、人は熱狂する。そしてそれは言葉だけの話ではない。既存のものに新しい文脈が加わる時、多くの人は熱狂し、NEW WAVEとして憧れる。新しさが革新と同じ意味合いとして受け止められる以上、新しさが常に求められることには致し方ないところもあり、新しさがなくなった途端に興味から切り離されることもよく見受けられる。しかし一方で、新しさと普通さや普遍性が矛盾しないこともある。僕にとってのリリカルスクールとはそういう存在だった。
2010年代のアイドルソングにはちょっと時空の異なる実験音楽のような趣が、オルタナティブな何かが確かにあった。当時の音楽好きの幾らかはそういった側面から彼女たちに傾倒していったはずだ。ももクロでもフィロのスでもベビメタでもエビ中でもねぎっこでもブクガでもトマパイでもなんでも良い、大事なのはそこに共通するNEW WAVEな感覚だった。かく言う僕はリリカルスクールをそのようにして聴いていたが、しかし一方でアイドルラップという呼称には昔から違和感があった。というのは、彼女たちのラップすることはアイドル的なものとは少しかけ離れていたように思えたからだ。もっと普通だったし、もっと普遍的だった。主に恋愛を取り扱うのは確かにアイドル的ではあるけれど、主に恋愛を取り扱うのは誰の人生だってそうだろう? 友達が得意げに自分らしくラップしてみせるような親しみやすさがリリスクにはあった。その距離の近さがとても好きだった。
…「距離の近さ」?
リリスクをよく聴いていた頃、僕は某CDショップ店で働いていた。担当が全く違ったので直接彼女たちに関わることはなかったが、インストアイベントで彼女たちが歌っている音だけを聴くことは時折あった。イベントの為に作られたパーテーションの向こう側で彼女たちがライブしていたことにドキドキしていた。ああいまやっているんだなあ、偶然すれ違ったりしないかなあ、とか考えていたが、しかし積極的に会いに行こうと思ったことはついぞなかった。何回かライブを見る機会はあったのだが、ライブ後のサイン会には参加したことがなかった。音楽が大事だった…というのは嘘ではないけれど、それ以上に、僕はしっかりシャイなのだ。
ある時点で僕はリリスクから離れてしまった。ネガティブなことでもあるから詳しくは書かないけれど、端的に言えばビジュアルが苦手になってしまったのである。男女混成のユニットという発想自体はとても素晴らしいと思うのだけれど、ビジュアルが僕にとっての普通さからは離れてしまった。その変化は「運営」の戦いの記録であるが、戦いを見つめることに疲れてしまう人だって当然いる。距離を置きたくなってしまうことだってある。その積み重ねが解散に繋がった一端であることは想像に難くないが、難しい話であるからこそ余計に悲しい。
ちょうど昨日のこと、バンドのメンバーと「いま芸能人を応援するってどういうこと?」という話をしていた。僕の例で言えば「①吉岡里帆さんの見た目はとても好き ②でも彼女のラジオを聴こうとまで思ったことはない ③ところがそのラジオに町田康が出ていた回はすかさず聴いた」のだ。ラジオだけでなく、彼女の出ている雑誌を買うとか出ている映画を必ず見るとか彼女がおすすめした本を買うとか、そこまですれば吉岡里帆さんのファンだということができる気がする。しかし、仮に僕がそこまでする熱心なファンだったとしても、彼女に会いたいという欲求はあまりない。街中で見かけても声をかけられないだろう(これまで街中で見かけて思わず声をかけてしまったのはネルス・クラインだけである…ちょっと変わっていると我ながら思う)。何故ならば、僕はしっかりシャイなのだ。2回目。
しかし今や「応援する」ことと「会う」こととを切り離すことはなかなか難しい。応援するということの意味や質感がAKBの登場から後に変化したと思う。「身近に会える」ということがあちらとこちらの関係性を変えた…当たり前ではある、距離感が違えば関係性も変わる。難しかったことが簡単になり、簡単だったことが難しくもなった。CDを買うことによって直接的な形で応援をし、その見返りとして彼女たちと会うことができた。ある意味で言えば直接的に「運営」に寄与し携わっていたということ、つまり政治に携わっていたということでもある。古代ギリシアの古典的直接民主主義のようなものの復権だと言ってもそんなにずれていないはずだ。そしてそこには常に戦争と闘争があった。戦うことによって組織が動いていた。僕がリリスクを好きでいられたのは、そもそも戦いに関与する気がなかったからなのかもしれないと今となっては思う。僕の抱く普通さは戦いを忌避している。
言わずもがな、アイドルのオルタナティブは必ずしも楽しいことだけを示す訳ではない。少しおかしなことも巻き起こっている。ググればストレンジなあれこれはたくさん見つけられるだろう。極めて物的で資本主義的な姿勢を始めから持っていたからこそ、欲望の呼び水でもあった。「運営」という言葉は生き残るだろう、しかし、その力はだんだんと失われていく。それよりも普遍的に残るものとして、minanさんの言葉を僕は信じたい。そこにある優しさと刹那を信じたい──「最後に、お互い頑張ろうと鼓舞し合ってきた同業の皆が、納得いくところまで活動を続けられますように。心から願っています」。
我が家にあるレコードの中に、minanさんのサインの入った”つれてってよ”の7インチがあることを知る人は恐らくいないだろう。ばっちり僕の名前も入っている。その経緯についてはここには書かない。大切なものであればあるほど、他の人には知られたくないものなのかもしれない。