行かんといてって言えば、その手を取れば、きっと狂児は何も考えずに振り返ってくれる。
僕の願い通りに留まってくれるかは別として、あの人に出来ることならばひとまずはいうことを聞いてくれる。その瞬間に満たされて、でも何も通じていないことに絶望して、ひとりよがりに肥大した感情に名前もつけられないまま持て余した結果、何も出来ずに折角止めた足を引き留める手段も見つからずにさよならするのは目に見えていた。
なんもできなくて。
なんもする気になれなくて。
悔しさのまま、夕陽に煽られて一層に伸びた男の影を踏んでみる。
お解き話じゃあるまいし、影を掴まえても本体は痛くも痒くもないし、歩幅の大きい男の頭の端っこの影を踏んづけてもたったの一歩ですり抜けてしまう。無意味だなと思いながら、そもそも二人が会うこと自体なんも意味ないしなとどうでも良いとこに着地する。
嗚呼、でも昔よりも、なんか少し歩く速度遅くなった気がする。
僕の身長が前よりは伸びたのもあるし、狂児が老化したのもあるかもしれない。なんでもない事が重なった、ただの結果に過ぎないかも、しれない。それでもその可能性の一つに、少しはこっちの様子伺ってんのかなと思うと、足元から影は逃げ出していたけど、嫌な気分では無くなっていた。
「~♪」
「なん。ご機嫌さんや」
ついつい意識がとんで、世界を忘れて、一人になった心地で口ずさんだ歌にもならない音を拾って、数歩先の男の歩く速度が緩んだ。振り返った狂児がにこにこで、それが僕のせいかなて思ったら、なんか消化不良で。変に顔を歪ませれば、拾われたくなかったやつ?と聞かれて、そういうんじゃないと首を横に振った。
ご機嫌だったのも本当だし。そうさせたのもあんただし。
この世の誰よりも話を聞いて欲しいのは狂児なのに僕の顔は可愛げ無く膨らむだけだ。男を止めることに成功したのに、振り向かせられたのに、その先引きつけるだけの力はこの手にない。なんもない手は心許なくて、なんだか突然に寂しくて、少し先にある男の手を取っていた。
「あ」
と、声が出た。
迂闊だったとその一音でまんまとバレて。
その一瞬で、まんまと男の手に捕まった。
行き成りどうした、と突っ込まれたら、なんて答えようか。
ぐっと身体を縮込ませると、男は暢気な声で、今日はちょっと人が多いもんなあと言う。俺がはぐれないよう、ちゃんと掴まえとって。て。
うまく横に並べないせいで、僕より先を歩いてて。端から見たらどこぞに連行されていくような姿で、誰がこっちが掴まえてるなんて思うだろう。事実がんじがらめに捕縛されているのはこっちだけで。捕まったなんて阿呆みたいなことを思って居るのは狂児だけだ。
「そんなら、もちょっとゆっくり歩いて下さい」
「え、ごめん。まだ速かった?」
そんなの早く言うてよ。と男が眉を下げるから、先ほどまでのうじうじと足元ばかりに視線を落としていた自分がわあわあと騒ぎ出して、途端に捕まった左手が燃えるように熱くなった。二人が離れすぎて手がもぎれないように。つかずはなれず傍にいて欲しい。
言いたいこと。伝えたいことはこれっぽっちも伝わらないまま。それでも、悪くないなと思う夜。幸せへの鍵なんて自分の取り方次第だと、適当な父が言っていたのを思い出して、ほんまにそうかもなと思うと、少しだけ実家が恋しくなって。ますます男の手を強く握っていた。