その朝はいつもよりすこしだけ時間に余裕があって、だからわたしはいつもよりすこしだけ目に映るものに脳のリソースを割きながら歩いていた。
毎朝通りすぎるだけの道にも、案外おもしろいものはある。例えば、知らないひとの家の表札とか。あたらしく彫られたなまえはおそらく女の子のもので、立派な書体でちからづよくそこにあるからこそ、朝の柔く差し込む陽の光に照らされているのがとてもとうとい。通りすがったひとは黒いダウンコートに黒いスラックスで、全身真っ黒だったけれど、ちらりとのぞいた靴下がみずたまで、そのアンバランスさがかわいい。とか。
そしてわたしが見つけたのが、ごみすてばに置かれた一冊の文庫本だった。わたし自身は、本をごみすてばに捨てる、という行為をしたことがないけれども、捨てられている本というのはたいていビニール紐かなんかで何冊かをぎゅっとしばられているイメージだ。でも、その本は、ごみすてばのネットのなかにぽつんと一冊でいた。あった、というより、いた、というほうがその本に似合っていた。ちろ、とその本を見ると、こちらがわに天(本のうえの部分)が向けられていて、天アンカット(本のうえの部分をわざとぎざぎざに仕上げる製本技術)がほどこされていること、スピン(しおり紐)があることから、それが新潮文庫であることがわかった。しかも、かなりぶあつい。気になったのは、そのスピンが金色をしていたことだった。
新潮文庫を買ったことのあるひと、というか、本が好きなひとなら納得していただけるかもしれないが、金色のスピンというのはなかなかにめずらしい。ふつうは茶色をしている。この色も落ち着きがあって、淡いクリーム色をした新潮文庫の紙によく合っていてすてきなのだが、金色というのは、やはり特別な色なのである。
いつもよりほんのすこしばかり時間があるのをいいことに、わたしは一度通り過ぎたごみすてばに引き返し、ネットのなかにいる文庫本の題名を盗み見た。その本は、『百年の孤独』だった。文庫化すると世界が滅ぶとされている作品のうちのひとつで、文庫化された当時はネット界隈も、リアルの書店界隈でもなかなかの盛り上がりを見せていた。その本が、なぜか家の近所のごみすてばにいる。表紙はぴかぴかというわけでもないが、ひどくよごれているわけでもない。見える範囲では、通読するには充分な状態に見えた。書店では平積みされて、そのうちの一冊を手に取ってはそのままレジに持っていくひとを何人か見かけたのをおもいだす。誰かに手にとられて、そしてその誰かにここに置いていかれた『百年の孤独』が、いま目の前にある。
ふしぎなのは、その本がとてもていねいにごみすてばに置かれていたことだった。乱雑に投げ捨てられた形跡など微塵もなく、まるで書店で本をもどすかのようにそっとごみすてばに置いて、わざわざネットまでかけて、という行為をこの町にすんでいる誰かがしたのだ、と思うと、ほんとうにふしぎだった。その行為はまるで埋葬のようで、この『百年の孤独』はおそらく誰かに読まれて、役目を終えて、その誰かに埋葬されたのだ、と思った。ちかくでじっとこちらを見ているカラスに、この本にいたずらしちゃだめだよ、と目線を送りつつ、わたしはそっと『百年の孤独』に背を向けた。金色のスピンが毛羽立っていることには最初に気づいていた。やはりあの本は、きちんと読まれたうえで埋葬されたものなのだと改めて思った。
帰り道、そのごみすてばをちらりと覗くともうそこには『百年の孤独』はおろか、そのあとに捨てられたであろうごみたちの気配すらのこっていなかった。カラスももういない。もしかするとあの本はまだ誰かに読んでもらいたかったのかもしれないけれど、それでも、「捨てる」という選択をされたあとの行為として、あの「埋葬」はとてもうつくしく、『百年の孤独』に対する礼儀であった気がしてならないのだ。
かく言うわたしもまったくおなじ、金色のスピンをした『百年の孤独』を所持している。わたしはこの本とどのように別れるのだろう。お気に入りの書店のカバーをかけた『百年の孤独』を撫でながら、誰かによって埋葬されたおなじ題名の本のことを思い出す。