12月の金曜日、会社の忘年会がオフィスで開かれた。といっても軽く乾杯して近所のおいしいピザをテイクアウトする感じ。
一通り食べたころ、今年の漢字を一字書いて箱に入れ、後からランダムで選んでそれを書いた人を当てるゲームをした。
そういえば今年の清水寺のは、「税」だっけ。つまんなかったなー。でもそういう自分はなんだろうな。踊ることに出会ったから、踊かな。でもそれをこの宴会の場で人に説明するの、めんどうだな。。。とか考えてる間にシンキングタイムは終わり、箱には何も入れずに終わってしまった。
で、拡とか叶とかいろんな字が出てきたんだけれど、私が一番心を奪われたのが、「諦」という文字だった。
出したのはMさん。30代半ばにして会社いち頭がよく、経営はもちろん、社内のあらゆるプロジェクトの中心によばれて、バリバリと仕事を進めているのに小学生男子みたいにのびのびしていて、みんなに慕われている宇宙人。
そのMさんが諦って、どういう意味だろう?
ゲームが終わった後、気になってきいてみた。Mさんは缶の角ハイをゆっくりと飲みながら言った。
「うーん、なんていうんだろうな、自分が何かするっていうよりは、巻き込まれていった、こたえていったな、っていう感じ。自分が何をやりたいかとかいうことは諦めてる。でも、ぜんぜんネガティブじゃなくて。」
明るくて開かれている。なんだろう、その境地。自分の命を使ってくださいって明け渡している。これはいまの会社に関わるようになって初めて出会った感覚だ。会社の中心を担っている人ほど、深いところに持っている感覚。
面白いなと思い、いまは別の起業をしている元同僚Tくん31歳にこの話をしたら、彼もまったく違和感なく、
「あ、わかる。そうだな、そういう話し方はできるようになってきたと俺も思う。
命がどう伝われたがっているか、っていうのがいちばんしっくりくる。
諦めとも重なるんだけど、えいやーって、自分の中から覚悟みたいなものを打ち出さないと発言できないんじゃなくて、何か決まってることを言う話し方になっている。」
と言った。
そうなんだ。
そんなこと、考えたこともなかった。自分の発想として、まったく、ない。
聞いてみた。それって、どんな場面でも、そう言い切れるようになったということ?
「うーん、言い切るっていうような感じでもなくて。でも自分の命をなにに使いたいかとか、志を成し遂げるみたいなことは、もう難しくて。期待を受け入れる、に近いかな。
もともとは大きな会社の会社員だったし、ビジネススクールにも行ったから、TPOに合わせた言語操作は得意だったけど、そういうの、もういいかなと思って。しっくりくる言葉を選ぶようになったというか…言葉を選ぶ必要がなくなった。」
ほがらかに、静かにそう言う。
2人と、自分が、立っている場所が完全に逆なんです。私の中深くに根づいている、高度成長期の家族+学校生活+長い会社員生活でうっかりきっぱり育んできてしまった、ひたすら前を、上のほうを見すえ、自分を起点に「何をしたいのか」から始まるトーンと。
この20年で、こういう自在な人たちが生まれているのか。そういえば私の心の師匠である先輩Yちゃんも30代前半にしてそういう話し方だ。。。
いままでピンポイントで散らばっていた言葉が急につながり、世界の見え方、いやもっと手前、自分のあり方のOSみたいなイメージになって目の前に浮かび上がっている。OS、入れ替えていきたいなぁ。
自分の命は私にどう使われたがっているか、から先に考えると、いろんな順番も、仕事の忙しさも、少しずつ整理できそうな予感がする2023年の暮れだった。