書くことについて考えた

edamariko
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眠れなくなると、目が覚めてしまうと最近自分はなにを書きたいと思うのかについて考える。

それができるのは、週末が終わる日曜日の夜くらいになってやっと自分にかえったと心身ともにわかるとき。そこまでの平日はべったりと仕事が自分にはりついていて、すきまがない。べったりを土日かけて溶かしていくと空間があらわれる。

書きたいと思うのは心が動いたとき。言葉を出してみることでしか満たされない小さな部屋があり、そこのドアは日常の風が強すぎてときどきしか開かない。開いた時を目がけて息を吹き入れる感じ。何を入れたい?

思い出してみると、先週だけでもいろんなことで心が動いている。

財布を落として、それがカードも入ったまま交番に届いているとわかり、翌日警察署に行って受け取ってみたら現金は全部抜かれてなくなっていたとき・次女の挙動がイマイチ不審だったのが彼氏がいることが間接的に判明してやっと最近の違和感が腹落ちしたとき

・ものすごく書きにくい会議レポートをやっとラフ状態まで書いて出してみたら中身がセンシティブすぎて公開見合わせと言われたとき・若い同僚たちとのオモロい飲み会2つ・そこで聞いた『銀河の死なない子どもたちへ』を読んだとき

・師匠との月例勉強会・久しぶりに会うたびに自分の話が止まらなくなっていく同世代の男友達の話を退屈しながら聞いていたとき・不適切ドラマで蘇る冷凍された数々の記憶

・就活中の長女にストレングスファインダーをやってもらってみたら結果がほとんど自分と同じだったとき・週末に夫と246ドライブで遠くの日帰り風呂に行くとき・・・いろいろあるんだけど、そこまで書く気がしないのはぜんぶ自分のことだからだ。

そしてそうやって列挙してみたらわかってきた。自分が何を人と共有したいか、それが自分の、人と世界ともちたい距離感のあらわれであること。だとすると、自分の話や考えたことをそこまで人に伝えたいと思っていないのかな。その時間を作るのも、パワーがいるし。。。

書くことで親戚みたいな人が増えたとみずのさんが言っていた。そういう意味で私に親戚はほとんどいない。親戚、ほしいなぁ。もともと本当の親戚も実際に少ないせいもあるかもしれない。基本的な人との距離感があんまり近くない。そもそも自分の話をするのが苦手だ。

でも、親戚の話を聞いて、それをやってみたいと思った。書くことで世界を人と分かち合うこと。空の小さな星の光みたいに点滅して、交信したりしなかったりする。それが面白いかどうか、できるのかどうか遊んでみる。何より世界と自分との間にある気がしている壁にヒビを入れて光と空気を通す、そのための石を作る方法なんだとしたら。

少なくともこうしてこれを書いていること自体が楽しい。でも今度は睡眠時間がなくなっていく。どこから何を変えればいいのか。こうして今週も月曜日が始まりました。