ひとりの春は巡る⑤/創作

しぐれ子/さぎしら
·
公開:2026/5/3

先輩は僕の家に来ると、いつも必ず一つだけ何かしらを残していく。何かの動物の習性みたいだ、と思っていた。大抵はほとんど中身の残っていない飲みかけのグラスがベッドのサイドテーブルに置かれたままになっているだけだが、滅多に吸わないはずなのに吸いさしの煙草があったり、本当に時折読書する時にだけ掛けている眼鏡が置き去りになっていたりもする。そういえば、昔から本なんて読まなかったし普段もそんなに読まないが、知り合いの影響だ、と言っていたことがあった。なぜ今思い出したのだろう。頭の中で何かと繋がりそうなのに繋がらず、しばしの間もやもやして、結局は考えるのを放棄する。

もちろん、先輩のことは嫌いじゃない。だが好きだというのも何か違う気がしている。もっと複雑な関係だ。今の仕事を紹介してくれたという点で、間違いなく僕の人生を変えた人物ではあるけれど。

この前、不可抗力ではあるが誘いを断ってしまったことの埋め合わせとして、どうせ来たがるのだからと直接家に招待した。その日はオフでいつも通り予定もなく、ジムへ行くか家でだらだら適当に過ごすくらいしかすることが無かったので、せっかくだからと掃除をした。

先輩が来る時の家は、大概あまり綺麗な状態ではない。会うのは大抵週末の夜、さらに家へ来るのは一杯飲みに行ってからのことだったので、已むなしといったところだった。それでも彼がそういった細かいことを気にするたちではないと分かっていたし、そもそも彼はいつも半ば押しかけてくる側だ。万一文句を言われたら、いっそ彼の住処へ乗り込んでやるつもりだったが、ついぞその機会は訪れていない。

そして今の僕はソファに腰掛けて、ぼんやりとテレビを眺めながら煙草を吸っている。いつも雑然としているテーブルの上は綺麗に片付けられ、吸い殻の溜まっていた灰皿も、今吸っている一本を除けばまっさらになっていた。不意に訪問者を知らせる電子音が鳴り、弾かれたように立ち上がる。煙草を灰皿に押し付けて火を消し、ついでにテレビも消してしまうと、なんとなく足取りが重い気がした。家に呼んだのは僕自身なのに、理由が理由だからばつが悪いのか、緊張でもしているのか。それについては自分でもよく分からなかった。

扉を押し開けると、いつになく地味な格好をした先輩が立っていた。背後から夕陽が差し込んでいて、彼はサングラスをかけ、少しよれた襟付きのシャツにスラックスを穿き、しかしそうしたシンプルな服装はスタイルの良さをより引き立てているように見える。珍しく、手にはワインの壜が入ったビニール袋を持っていた。

「こんにちは、先輩」

「ああ」

そんな短い挨拶を交わして、先輩は僕の脇をすり抜けるようにして家に入ってきた。野良猫みたいな人だ。

「珍しく片づいてるな」

「来客の予定がある時に掃除するのは、普通でしょう」

「まあな。お前がそんなに殊勝なもんとは思わなかったが」

「……どういう意味ですか?」

「思ってたより真面目だなってことだよ」

先輩は冗談めかした口調で言い、中の壜ごとビニール袋をテーブルに置くと、ソファに腰を下ろした。そして、僕に上目遣いの視線を向ける。それ以外のジェスチャーは無かったが、隣に座れというのだろう。

家主の僕は、訪問者である彼の促すままにその隣へ腰を下ろす。なんとなしに座面に置いた手に、上から被さるものがあった。彼の手のひらだ。

かと思うと、もう片方の手が頰に触れ、そのまま唇を奪われた。

「っ……んぅ、」

彼の肩に触れてみるが、止めてくれそうな気配はない。それどころか体重を掛けられ、柔らかく押し倒される。ソファはベッドに比べれば当然ずっと狭く、逃げ場のないように感じられた。本当は少し身体を捻れば床へ転げ落ちることができるのに、そうする発想すらなかった。

深く口づける間に、脇腹から腰のラインをなぞるように移動した手が、ベルトのバックルに触れる。その下にある股間のそれは、もちろん反応してなどいない。先輩はそのことを認識してかどうなのか分からないが、そこで手を止めた。彼は不意に唇を離し、絡めていた舌を少し差し出して、細く糸を引く唾液を舐めとった。

どうやら僕に、質問する余裕を与えてくれるらしい。

「酔ってるんですか?」

「なぜ、そんなことを訊く?」

「一応、確認してみただけです。……短くない付き合いなんですから、素面かどうかくらい分かりますよ」

「この前、あの店にいただろ」

言われたことを飲み込むのに、少しかかった。僕はきっと間抜けな顔をしていただろうが、曖昧な言い方をする方が悪いのだ。僕は、自分が苛立っていることに気づくのが嫌だった。できればずっと平静で、平坦な心持ちでいたかったからだ。

「先輩も居たんですか?」

先輩は、訊き返されると思っていなかったような顔をして、僕と同じようにしばし沈黙した。形の良い眉を僅かに顰めて、押し倒されたままの僕を見下ろしている。僕はどんな顔をしているのだろうか。

「言っとくが、わざとじゃない。偶然だった」

「分かってますよ」

答えれば、先輩はますます機嫌を損ねたようだった。彼がこうした感情を見せるのは珍しいと、どこか第三者のように見ている自分がいる。その感情を向けられているのは、他でもない自分なのに。

「あいつと何してた?」

不思議と、そう訊かれることを初めから予測できていた気がする。

「先輩、分かった上で言ってるでしょう」

「見てないんだから、分かるわけないだろ。……なあ、アーニー。お前のために言ってるんだ」

「何を?」

「あいつとは深く関わらない方がいいってことさ」

シャツ越しに、胸元に温かな手が触れた。先輩は整った顔に微笑みを浮かべている。僕はおもむろにその手を取って、しなやかな指を自分のと絡めてみせた。

「もし、あの人のことを好きだって言ったら——」

言い終わる前に、唇を柔らかいものに塞がれた。握っている方の手は僕の指を解こうとしたが、そう簡単に離したりはしない。それでも彼はもう片方の手を僕の腰に回して、ベルトのバックルを器用に外した。

差し込まれた手が下着の上からそれに触れた時、いつもと違う感覚があった。静かな湖面に立つ細波のような、胸がざわざわとする感覚。別にこうやって半ば無理やりにされるのは嫌いではないのだが、もっと別種の嫌な感じだ。

下半身をまさぐる手を取ると、ゆっくりと唇も解放される。彼は黙っていて、僕はただ彼が口を開くのを待っていた。気まずい沈黙が流れたが、先輩はその静寂を自ら断ち切った。

「本当に、あいつが好きなのか?」

「……分かりません。ただ、興味があるだけなのかも」

「また裏切られるだけだ。お前が、今まで経験したのと同じように」

彼は僕が握った手を優しく振り解いてソファの上に置いて、それ以上僕の身体に触れることはなかった。どこか何かを諦めてしまったような、そんな様子だ。

「それは、あなたが裏切られたからですか?」

訊かずにはいられなかった。先輩は諦観が滲む表情に、自嘲の色を浮かべる。

「お前、あの時のことは訊かないって言ったよな。教えてくれるまで待つって」

「ええ。『その時のこと』については、訊いてませんから」

屁理屈だ、と彼は声をあげて笑う。もちろん僕自身もその通りだと思うが、素直に認めるつもりはなかった。

しなやかな指が顔に伸びてきて、反射的に肩をこわばらせたが、その指はするりと頰の輪郭を撫でただけだった。指先は耳朶を掠め、ピアスを小さく揺らす。少し擽ったかったが我慢していた。

「……悪かった。もはや何を言っても聞かないと思うが、お前には話しておきたい」

先輩は先ほどまでの調子が嘘のように、どこか安堵したような顔で身体を起こした。テーブルの上に放置されていた壜に向けた視線を僕に移して、飲むか、と尋ねる。僕も何もなかったように乱れた衣服を直して、容れ物を取ってきますよ、と答えた。

言葉通り食器棚から容器を二つ持ってきて——もちろん、ワイングラスなんてものは無いので普通のグラスタンブラーだ——テーブルに置くなり、先輩は待っている間に開けていた壜から中身を注いでくれた。深い色の赤ワインだ。結構渋そうな色をしていて、苦々しい場に合うな、と思ったが口には出さずにおいた。互いに何も言わずグラスをぶつけて、僕は中身を少しだけ口にした。苦味と酸味の深い味わいが口の中に広がり、ちょうどよく心を落ち着けてくれる。気がつけばほとんど日が沈み、外は暗くなり始めていた。

「あの頃の俺は、ある犯罪組織を追っていた。あいつが関わってたっていう——その話は、お前も聞いてるだろ。奴らは主にクスリの売買で儲けているが、警察でも手を焼くほど用心深く、中々尻尾を掴めないでいた。だからうちに仕事が来たってわけだ」

早口ではないが、呼吸を挟むことなくそこまで語って、先輩はワインを口にする。赤い液体をゆらゆらと揺らしながら、前だけを見て先を続けた。

「あいつに出会ったのは、その仕事を受ける前だった。お前と会ったみたいにバーで隣になってな。その時は俺もかなり酔ってて、なんとなく話し掛けたら気が合ったんだ。その頃の俺はまだ若かったし、好きだと言われた相手が男でも悪い気はしないどころか、むしろ興味が湧いた」

「あの人の方から言ったんですか?」

「ああ、間違いない。もちろん、出会ったその日になんてもんじゃないが」

思わず、横顔を見つめてしまう。そして彼の、ベネディクトさんの顔を思い出して、すぐに目を逸らした。知人同士の恋愛について聞く時は、たとえ何年も前のことであってもあまり想像力を働かせるべきではない。ましてや、どちらとも多少の性的関係があるのなら尚更だ——そんなことを考えて、自分がどれほど複雑な立場にあるのかということを、今になって理解した。

「あいつと付き合いながら、俺は仕事として組織を追った。街を駆けずり回って奴らの手掛かりを探して、ようやく取引の情報を掴んだんだ。本当に大変だったよ……その大変な中で、予定の合間を縫ってあいつに会うのが、その頃のささやかな楽しみだった」

先輩は自嘲めいた笑みを浮かべながら、二杯目のワインを注いだ。外はもうすっかり暗くなってしまっている。先ほどとは違う、ある種の胸騒ぎがした。

「取引の現場は、どこにでもある駐車場だった。ブツを積んである車ごと受け渡しが行われるところだった。俺は一人で、呼吸の音も立てないように必死で隠れていた——そこに現れたのが、あいつだ」

先輩の顔を見られず、手元に目を向けると、指が小さく震えている。実のところ、僕も手が震えていた。もはやその話に、僕が口を挟む余地はない。

「話し声が聴こえたが、遠かったから何を言っているかまでは分からなかった。それでも片方の声が聴き慣れたあいつのものだと分かった時、俺は銃を抜いて飛び出していた」

煙草を吸いたくなったが、手元にはない。あるとすれば、灰皿に残されている一本の吸い殻だけだった。

「もちろん取引の現場を押さえるのには失敗して、あいつは逃げたし、俺も結局は逃げるしかなかった。正直、生きているのが不思議だ。思い出すたびに考える」

「……何を?」

「あの時、あそこから出るべきじゃなかった。あいつとも付き合うべきじゃなかった。そういう後悔だよ」

二杯目のワインを飲み干すと、話は終わりだ、と先輩は半ば無理やりに締め括った。ようやく顔を見ることができて、長めの髪をかき上げた額には汗が滲んでいるのがわかった。そして先輩は僕に顔を向けて、自然と目が合う。その目元は乾いていた。

「そうだ、後日談も話しとかないとな。その後、警戒心を強めた組織はより深く地下に潜り、すっかり姿を眩ました。それから何年も経って、奴らがまた現れたとの噂が立っている。その手がかりとしてあいつが調査対象に挙がり、仕事を与えられたのがお前ってことだ」

僕は顔ごと視線を逸らして、両手でその顔を覆った。視界に暗闇が訪れ、思考をリセットしようとしたが、うまくできなかった。彼の話をまだ自分の中で処理できていない。できそうもない。ただ、これだけは言っておかなければと口を開いた。

「……話してくれて、ありがとうございます。先輩」

「いや。俺の方も……なんだか楽になった気がする」

言葉通り、彼が常に纏っていた緊張感のようなものは、今となってはすっかり消えてしまったように思える。

「あいつのことは、今はもう何とも思ってないんだ——本当に。これだけ時間が経って、出会う前の生活に慣れてしまえば、何もかもどうでも良くなるものさ」

先輩はもうワインを注がなかった。僕もほとんど飲んでいないので、壜の中にはまだ半分以上残っている。彼はこのまま、この夜にこれを残していくのだろう。

それでも、僕はベネディクトさんのことを考えてしまっていた。真実がどうあれ、彼も先輩に対して同じように思っているのだろうか? 初めて会った日のことを思い出す。時が経つにつれて少しずつ記憶は薄れていくものだが、彼ら二人の瞳がよく似ていると思ったのは、しっかりと覚えていた。もちろん、僕には関係ないと思ったことも覚えている。今や大ありだ。

「……アーネスト。すまなかった」

「いえ、僕の方こそ。すみませんでした」

具体的に何に対しての謝罪なのか、自分で言っていても分からないが、きっと日々のあらゆることに対するものだ。僕と先輩は互いに複雑な感情を抱いていて、利用しあっている。それが分かっていながら続けていて、終わらせる気も無かった。流れた空気が妙に気まずく感じられ、多少無理をして言葉を紡ぐ。

「……少し……考えさせてください。まだ……その、受け止めきれていなくて」

「当たり前だ。俺も考え続けているくらいなんだから」

そう言って、先輩はソファから腰を上げた。重そうなそぶりはなく、気怠げな様子もない。さりとて清々しいというほどでもない、あるいは日常の姿だった。

「それじゃあな。また連絡する」

その言葉がどこまで本気なのか分からなかったが、わざわざ尋ねることもせず、消えていく背中を見送ることしかできない。ややあって扉を閉める音が遠くで響いても、鍵を掛けなくてはと分かっていても、しばらく立ち上がることができなかった。

@eeergs
文をかきます