ひとりの春は巡る⑦

しぐれ子/さぎしら
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公開:2026/5/30

この街の夜は、本当に時々だが物騒だ。近づいてはならない場所と時間帯が明確に存在していて、俺はそれを知っているのに、その日はルールを破ってしまった。時が経ち記憶が薄れていたのと、加えて酒のせいで判断力が薄れていたせいなのだが、こういうこと自体は昔から時々ある。俺という人間は、昔から絶望的に運が悪いのだ。

そもそもの始まりは、俺が今よりずっと若い頃だった。生まれた時から長年住んでいた田舎を離れ、都会に出てきたばかりの俺は、当然ながら本当に何も知らない若者だった。昔から人付き合いは苦手だし、むしろ人付き合いを余儀なくされる狭いコミュニティが嫌で田舎を出てきたのである。しかしだからこそ、ものを知らなかった。若かった俺は金も無く、簡単に騙され、気づけば下っ端として組織犯罪の片棒を担がされるようになっていた。その頃に顔見知りになった奴はたくさんいるが、完全に足を洗った今ではもうほとんど覚えていない。だから向こうも覚えていないだろうと、そんな風に思っていた。

その場所は、どこにでもある駐車場だ。今思えば、広い場所で風に当たりたいだけなら公園にでも行けば良かったのに、ちょうど近くにあったそこに迷い込んでしまった。そして顔見知りに見つかった。停まっている車のそばで呑気に煙草を吸っていた奴は俺を見ると気さくに話しかけてきて、最初は誰だか分からなかったが、適当に受け答えをするうちに記憶が蘇ってきた。そうだ、こいつは組織にいた頃一緒に馬鹿をやっていたうちの一人だ、と。それから芋づる式に当時の記憶が呼び起こされ、その場所がかつて組織の取引に使われていた場所であるということに気づいたのだ。

すべてを理解した時には、もう手遅れだった。もう少し早く気づいて、さっさとその場を離れていたら、もしかしたらあんなことにはならなかったかもしれない。時が経ち、何もかもどうでも良くなったと思っていたが、改めて詳細に思い出すと動悸がする。これまで見たことがないほど殺気に満ちた瞳と、何もかも吸い込んでしまうような昏く冷たい銃口。言葉を為さない怒号と、背中に響く乾いた発砲音。彼は確かに俺に何か言っていたはずだが、何を言っていたのか、あるいは何を言おうとしたのか、もはや知る術はない。スマートフォンに残った連絡先に掛けてみたことがあるが、もちろん無効になっていたし、メッセージを送ろうとしても同じだった。あれ以降、恋人だった男の姿を見かけたことはない。あの奇妙に綺麗な野良猫のような、美しくどこか危険な魅力を纏っていた男を。彼のことを思い出そうとすると、その姿は妙に色褪せた像に感じられた。

皺の寄った眉間を揉む。その内側にあるのは蘇った恐怖と、後に残った後悔だけだ。アーネストの精悍な顔つきに浮かんだ、諦観のような色を思い出した。唇は微笑んでいたが、色素の薄い瞳には悲哀が映っているような気がした。

彼は俺の話した、肝心なところが曖昧で歯切れの悪い過去を聞いてどう感じたのだろう。別れる前に二人で歩いた散歩道は、その何もかもを頭から追い出すのに最適だった。いつも昼に会う時のようになんでもない話をして、普段の生活や近い未来の話をして、過去の話などひとつもしなかった。

しかし、家に帰ってきて一人になって、改めて考えた。俺は過去からすっかり逃れた気でいただけなのだ。今はまともな職も得て、一人ではあるが普通の生活もあり、何もかもから無縁な人生だと思い込もうとしていた。ただ、俺は最も重要なことを理解していなかった。すなわち——俺自身が忘れようとしたとしても、周囲は俺のことを覚えているのである。

決着をつける必要がある。最善でなくとも、何らかの形で。

僕は彼の情報を洗い直していた。何度か尾行して確認した——実のところ最初の日以来、彼に尾行が見つかることはなかった——日常のルーチン、行動範囲、それから働き先や近隣住民との関係性。僕と同じく交友関係は狭く、むしろほとんど無いと言っていい。彼の同僚から聞いた話では若い頃に田舎から出てきて、地元の友人とは関係が切れてしまっているとのことで、他の同僚ともあまり深く付き合わないという。近所の人との関係ももちろん希薄なようだ。と言っても近頃のこの情報化社会において、そういった人間は決して珍しいものではない。僕だって彼とあまり変わらないのだから。

それから、僕が仕事をもらっている探偵社の方にも改めて確認してみた。先輩が言っていた通りなら、組織はかなりの秘密主義で、外に情報を漏らすことはない。なぜ彼が過去に所属していたという情報を持っているのか——ただし、これに関してはあまり役に立ちそうな回答は無かった。僕は元々下っ端で、もらえる仕事もいつもは浮気調査とか、ペット探しとか、そういうありふれたものなのだ。ベネディクトさんが組織の一員だったという話は、あくまで先輩の報告をもとに得られた疑惑程度のものであった。僕に与えられた仕事は結局のところ、組織と繋がりがある疑惑の人物を調べることで何かしら情報が得られれば御の字、と言った程度のものなのだろう。

結論づけるとともにタブレットPCを閉じて、ぼんやりと窓の外を眺める。色々と調べたことをまとめながら考えている間に、また夜になっていた。スマートフォンを手に取り、画面を点灯したが、特段何かしらの変化があるわけでもない。あれから先輩からの連絡も無いが、基本的に彼はいつも気まぐれであり連絡が途絶えることも珍しくなく、あんなことがあった後で僕から何か言うのも違う気がするので放っておく。ベネディクトさんは——外に出ているようだった。時間から考えれば、残業続きの仕事が終わってどこか外食にでも行くか、散歩に出ているのだろう。

夜の散歩は、彼となら、という枕詞がつくが楽しかった。僕には風景を楽しむ趣味はないし、歩くのは単なる移動手段で、それ以上でもそれ以下でもない。ただぶらぶらと歩きながら、他愛ない話をするのが心地よかった。学生の頃、友人とつるんでいた頃を思い出して少し苦々しい気持ちになったが、確かにあの時間は楽しかったのだ。その後にどんなことがあったとしても、楽しいと感じていた事実は変わらないはずなのに、僕にとっては単なる過去になってしまっていた。彼らとの記憶はすっかり色褪せてしまい、思い返しても何も感じない。人間というのは難儀なものだ。

溜め息をつくと一本取り出した煙草に火を点けて、ついでにテレビを点ける。この時間はもう粗方バラエティ番組も終わってしまっており、画面には大衆向けの恋愛ドラマが映っていた。社会人の女性が些細なきっかけから同僚の男性と恋仲になり、他の同僚や友人、果ては両親まで周囲の人々を巻き込みながら擦った揉んだする話だ。こういう物語は大抵、初めはうまくいくものの後々判明した事実から関係が拗れていき、しかし最終的には丸くおさまる、というのが筋だった。だから展開が容易に想像できる。それでも、最終的にはハッピーエンドになるというのがなんとなく分かっているから、人はこういったものを楽しめるのかもしれない。僕はというと、特に何も思うことはなかった。単なる暇つぶしだ。テレビを観るのが好きというわけでもない。ただ今は、恋仲といえる関係になった一人の男のことを考えていた。

なんとなしに顎を撫でると、伸びてきた無精髭がちくちくと指を刺す。少し整えた方が良いかもしれない。漫然とテレビを眺めながら煙草を吸うと、考えるのに疲れた頭の中に掛かった靄が少しずつ晴れていく気がする。あくまで気がするだけだが、ゆっくりと深く煙を吸い、またゆっくりと吐くと、麻痺した思考に血が通っていくようだ。

スマートフォンの画面を点灯して、アプリを開いた。彼の座標を確認する。現在地と履歴を追っていくと、その軌跡に対するいくつかの違和感が胸をざわつかせ、思考を速める。彼はいつも歩く街道を外れ、メインストリートから外れたビル街の中にある駐車場に少々滞在していた。駐車場。先輩がかつて突き止めた組織の取引現場も駐車場ではなかったか。それから彼は移動し、ビル街の中に一見無秩序な軌跡を描いて——今はある一点に留まっている。

嫌な予感が身体中を駆け巡り、持っていた煙草を灰皿へ力任せに押し付けると、車のキーを引っ掴んで着の身着のまま家を出た。何かが起こっているという確証はないし、ただの勘違いであるならその方がずっと良い。先輩と彼の陰を帯びた表情が交互に浮かんでは消えていき、二人の話していた内容と、嫌な想像が頭を埋め尽くす。

宵闇の中、車を走らせて僕はその場所へ向かった。立ち並ぶビルの中、道路の脇に駐車して、あとは座標を確認しながら徒歩で向かう。果たして彼の座標は僕が家を出る前からずっと、高いビルの間にある、おそらくゴミ捨て場だろう小さな空間で止まったままだった。

周囲はしんと静まり返っていて、まるでこの間彼と過ごした公園のようだったが、今この場所においてはその静けさが不気味にすら感じられる。人の気配がないか注意深く耳をそばだて、光のほとんどない暗闇の中に目を凝らしながら、音を立てないように建物の隙間へ入っていく。少なくともこの辺りには誰もいないようだ。そう思った瞬間、弱々しい呼吸が耳に入り、僕は身を強張らせた。彼の名を叫びたい気持ちに駆られたが、拳を握りしめて衝動を抑え込む。足音を立てないように進んでいくと、建物の外壁が凹んだ空間が見えて、僕はさらに息を潜めた。呼吸はそこから聴こえてくる。

「……誰か……いるのか?」

今となっては聞き慣れた声だ。やはり彼には分かってしまうのだろうな、と思いながら僕はその人物に姿を晒した。同時に彼の姿が視界に現れ、赤いものが目についた瞬間、全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。

「ベネディクトさん——怪我を?」

「……どうして、君が……」

「そんな話をしている場合じゃない。見せてください」

可能な限り身を隠そうとしたのか角に蹲っている彼は、言葉にならない呻き声をあげながらも僅かに頷いてみせ、右肩を押さえるようにしていた手を下ろした。黒いシャツの肩に穴が空き、そこから腕を伝って血が流れ出ている。どれだけこうしているのか、コンクリートに赤黒く小さな血溜まりが出来ていた。撃たれたのだ。致命傷ではないが、かなり血を流している。

「救急車を呼びますから、気をしっかり持ってください」

「いや……病院はだめだ。騒ぎになる……」

「伝手があるので、大丈夫です。外には漏れないようにしますから」

「……本当に、君なのか? ……アーネスト」

「僕のことは気にしないで。きっと……後で説明します」

あなたが元気になったら、と頭に浮かんだ言葉は、しかし口にすることができなかった。とにかく何も考えられない。震える手でスマートフォンを取り出したので一度取り落としてしまったが、なんとか拾い上げて救急車を呼ぶ。それから会社の担当者に連絡し手を回してもらうように頼む僕の様子を、彼はうつろな瞳で眺めているようだった。患部を押さえていたおかげか流血は止まりかけているようだったが、もはや意識も薄れてきているのかもしれない。

「いま、僕に……出来ることはありますか?」

「……これを……少しは、意味がある……」

彼が血に濡れた手を差し出すと、ガーゼ生地のハンカチが握られていた。これにも血が染み込んでいたが、止血の助けになるかもしれない。一も二もなくそれを受け取ると、開いて傷口に巻きつけた。結び目を作り強く締め付けると、苦しげな呻き声に胸が痛くなった。

どうしてこうなったのだろう。喉元に熱いものが込み上げ、必死で飲み下そうとする。伸びてきた血まみれの手は僕の頰を滑り、地面に落ちようとしたところをなんとか受け止めた。下がった体温をどうにか少しでも戻そうと、僕はその手を両手で握りしめながら、信じていない神に祈っていた。

やはり夜というものは好きになれそうにない。明らかになるのは、自分の愚かさばかりだ。遠くにサイレンの音を聴きながら、握った手から力が抜けていくのを感じていた。

@eeergs
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