ぼくの体に対する選択権はぼくにだけあって、だれにもそれは渡せないと思っている。
4月、ぼくはシスジェンダーになりすまさなければいけなくなった。今まで、比較的自由な身として、ノンバイナリーな人生を謳歌していた。しかし、そうも出来なくなってきたし、もし、ぼくがぼくであろうとすれば、生活できないくらいに困窮する未来が待っていると思えた。だから、ぼくはぼくであることをやめた。
もちろん、どんな格好をしていてもノンバイナリーはノンバイナリーだ。それでも、自分が選んだ格好であるか、外から強制された格好であるかは全く意味が違うように思う。
外の世界は必ず女性か男性かに"ならなければ"いけないことになっているし、もしどっちでもなかった場合、勝手に近似値を取られて似た方に分別される。あるいは、変な女性/男性だという奇異なものをみる目で見られる。ぼくは知っている。身を持って知っている。近所に住んでいる人がその性別に"似つかわしくない"と勝手にジャッジされて、陰口や嘲笑されていることを知っている。
ぼくは、それに耐えられる気がしなかった。自分を貫くより自分を消すことを選んだ。
まず、髪を伸ばした。性別らしいと言われる髪の長さにした。もうこの時点で苦しかった。
次に、メイクをすることにした。メイクはぼくにとって片方の性別らしさを担保するものであるという認識があるし、その性別であるならばしなければいけないものだと思っていた。本当はそんなことないと思うし、そんな規範ぶっ壊されればいい。メイクも苦しかった。ラメがあるものや、チーク、マスカラは片方の性別らしさが出すぎて、苦しくて出来なかった。いわゆるジェンダーレスファッションに該当するアイブロウやアイシャドウ、下地、コンシーラーはギリギリできた。
最後に、あらゆる毛を剃った。今まで、この世の規範に抵抗するという理由と自分にとって自然体であるという理由で、体毛を服の下で育てていた。でも剃らなければいけなかった。
剃っていると怒りで手が震えた。どうして、自分の体のことを、自分が表現したいものを、自分の性別をなかったことにして、外から強制される規範に合わせないと嘲笑の対象になるのだろう。どうして、自分は自分でいられることを許されないんだろう。どうして女性か男性かに勝手に分けられるのだろう。どうして性別によって姿形の見本があるのだろう。
こうして、ノンバイナリーはシスジェンダーへと擬態するのだ。笑っておくれ、この人生を。