人間はみな、記憶も経験も価値観も、すべてがゼロの状態で生まれてくる。まっさらな白紙の上に、長い時間をかけて絵を描いていく。親の声を聞いたり、テレビを眺めたり、近くの公園で遊んだり、好きな食べ物を見つけたり、さまざまな経験が、その空白を埋めていく。滑り台で感じる風、砂場のざらざらした砂粒、沿道を電車が駆け抜ける轟音。ありふれた、ささやかなものの総体が、頭の中の地図を作っていく。
幼児期を過ぎると、ほとんどの人が学校というコミュニティの中で過ごし、決まりきった価値観を学ぶ。挨拶をする、時間を守る、ゴミはポイ捨てしない、暴力は振るわない、嘘はつかない。これらは、人間が集まって生活するための基礎知識だ。それらを地図の中に書き込んでいき、隙間を趣味や遊びで埋めていく。この頃はまだ、ほとんどの絵は画一的だ。子供たちは価値観の似たグループを作って笑い合っている。
やがて子供たちは大人になり、経験や価値観は細分化していく。学歴、職種、趣味、パートナーの有無。さまざまな経験を経て、頭の中にある地図は、唯一のものに変化している。子供の習い事を何にしようか迷っている、親の介護で忙しい、上司の接待のためゴルフを始めた、投資にハマって大損した、健康のためジムに通っている。ピンとくる話もあれば、首を傾げてしまう話もあるだろう。中には変わらない人もいる。けれど、多くの人はそのままではいられない。分かり合えることは驚くほど少なくなっている。だから、流行の中に共通の話題を求めたりする。
これがきっと、大人になるほど孤独になる原因だ。誰と話しても、同じ地図を持っている人がいない。ある面においては共感できるけれど、ある面においては分かり合えない。少年少女の頃に出会ったような仲間が見つからない。かつての仲間は成長して、話が噛み合わなくなっている。できるのは昔話だけ。相手も、自分も、変わってしまっている。昔は、テレビという共通の情報源もあったが、今では廃れてしまっている。豊かになればなるほど選択肢は増え、同じ選択をする人は減っていく。一人一人が離れていくことは避けられない。
このような多様性は決して悪いことではない。人々が違う地図を持っているなら、それを掛け合わせることで、より広い世界を知ることができる。ただ、子供の頃にあった一体感を得ることはもうないだろう。その無常を切なく思う。