かつて学生時代 一日一冊本を読む程度に本の虫だった。ひねくれて居たので百聞は一見にしかず、なら百聞よめばそれは一見になるんだなと思っていた。
というのは冗談で、読書は単純に比較的お金がかからないが面白い、さらにはぱっと見の印象のよい娯楽だとおもう。読書が趣味です。高尚な感じがするだろうそうだろうなんとなく賢そう。学校の先生や親受けがいい。何読んでいるかはおいといて。
さて、学生さんはお金はないが暇はある。ので本屋に通っては立ち読みをしていた、今考えると吉川英治の宮本武蔵を毎日通って立ち読みするのはあかん。買えよ。
もっと多量に読む方法は図書委員になること。これはかなり便利だった。貸出、延滞の手続きをちょっとちょろまかす。閉架書庫にも自由に入れる。どの本がいつ返ってくるか見当もつく。ということでずっと図書委員だった。勿体ないもので大層立派な図書館をもつ学校だったにも関わらず利用する学生がほぼいなかった。こんなに本があるのに勿体ないなと思いながら独り占めできて大変うれしかったのを覚えている。
読む本のジャンルが凄く偏っている。歴史小説、次に推理小説、のちにSFばかりで偶に違うジャンル、図鑑や全書を読むもの面白い。
気に入った作家は作品ではなくエッセイも読む。人となりが知れて楽しい。この人はこういう人だからこういうものを書くのか、またその逆もある。100年前の今となっては教科書に掲載されている文豪が今と同じ悩みを抱き、女性だと思っていた小説家が実は男性だったこともある。そういうことが知れるのは楽しい。
なぜ本を読むのか。
本というものは不思議なもので行ったことのない場所、この世に存在しない世界、そこに暮らす人々、書いた人、架空世界や時空、時もあらゆる条件を吹っ飛ばしてその場所に行くことができる。
きわめてローコストに。図書館で借りれば無料だ。
更にかける時間についても、”読む速度は自分でコントロールが効く”。
電池は必要なく、必要なのは恐らくこれがなくなったら本を読むどころでない太陽の明かりが最低限のところ。
そして数に関しては膨大といっても過言ではないコンテンツ量を誇る。日本語の本だけでも恐らく一生で全ては読めない。
欠点は自分で購入すると途端に場所を取るところ。が、これも古本屋に預けておくという考え方があることを聞いて成程その手があったかと思った。売れてしまったとしてもそれはそれで他人が自分と同じ本に興味を持ってくれたということでオールオッケー。
といい事尽くめなので読まない手はない。年齢が経過して自分の感想が変わる点も面白いので多分一生遊べるコンテンツな気がする。