ヘンリー・ダーガーのように、誰に見せるわけでもなく自室で大量の創作を書くひとに、最近なろうとしてる。
ポッドキャストが創作、というのも(程度の低い創作だな)と思ってしまう。小説とか、漫画とか、絵とか、じゃなく、表現形式が録音というやつなので、誰でも簡単にできる簡単なものだ。それを磨いたところで、何になるというのか。
やってる行いだけみれば、私は壁に向かって喋り続けて、ポッドキャストをつくっている。あんまり反応はなく、数字だけがくるくる回る。聴いてるひとがいる、という時点でヘンリー・ダーガーとは大きく違う。けど、直接、なんか言われたり、なにか利益を得たりするというのもないので、やっぱり売れない画家とかミュージシャンとかそんなのにメンタリティは近い。これだと、変な嫉妬や自己卑下とかが出てしまうので、とても、健康によくない。
さいきん、頑張ってそういった世俗の邪念を振り払ってポッドキャストをやろうとしてるが、どんなに振るっても「わたしってほら、死後評価されるタイプじゃん?」という邪念が残る。
ただ自分が欲するままに話せるポッドキャストをできたらな、と思っている。
ヘンリー・ダーガーは結局、自分のお話をひとに見せることがなく、死後、膨大な創作が見つかって「なんかやべーぞ」と言われるようになった。そもそもヘンリー・ダーガーには、そんなような承認欲求のようなものはなかったのか。実のところ、あったんじゃないかな、と思う。誰が承認をくれるのかといえば、彼の被造物たちだったのではないか。
ダーガーが生まれてから死ぬまでを人生を読むと、父親亡くしてからは、さみしいひとだったんだなというのがなんとなくわかる。誰にも顧みられることなく、定期的にひそひそ言われる生活。それでも時々、家族が欲しくなったのか、教会に養子縁組を申し出て里親になろうとすることすらあった。結果、却下されていたけれど。
そんなひとがそれなりに毎日生きていけたのは、頭の中の被造物たちが、わたしたちを描いて、と語りかけ、非現実の王国で、ヴィヴィアン・ガールズが冒険と戦争を繰り広げたからだったんだと思う。じゃないと、生きていけなかったんじゃないだろうか。
ダーガーが生きている時代にSNSがあったなら、ダーガーは「コラージュで変な創作をしてるキモめのおじさん」として消費され、非現実の王国の物語を途中で書くのをやめていたかもしれない。容易にひととひとが繋がってしまうから、たぶん、孤独が原動力のような怨念めいた創作モチベーションは、あんまり生まれないのかもしれない。
ここ最近、しずかなインターネットを中心にものを描いたり、SNSをあんまりみないようにしてるのは、そんな孤独を取り戻すためだ。だが、そうやってはじめたにも関わらず、毎朝更新されるしずかなインターネットのダッシュボードでアクセス数を確認してしまう。ダーガーみたいには、なれない。