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eleckyou
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金曜日、姉が家に泊まりに来てくれた。有楽町で映画を観終わり携帯を開いてみると、姉から「〇〇(姉の呼び方では2文字になる私の名前)、ゆずもらったけどいる?」のメッセージが来ている。恵比寿で友人と会っていたとのこと。新宿で落ち合い、高円寺のカフェに向かう。今はもうやってなさそうだったけど、高円寺に住んでいた当時、このカフェで17時から21時までやっているハッピーアワー狙いでよく友人と来ていた。ワインとビールが300円、ここを見つけた時は「10杯飲んでも3000円だよ!すごくない!」とはしゃいだのを覚えている。今では考えられないほど学生時代は酒を飲んでいたと他人事のように思う。特に劇的に変わるわけでもない(とは自分で思っている)がお酒を飲んでいない自分の方が好きだ。酒は飲まなくても雰囲気が好きだし遅くまでコーヒーが飲めるので時々利用させてもらっている。マイサンクチュアリ

今年はここぞと言うタイミングで姉に会えることが多くあり、精神的にとても助けられた。姉も新しい環境に飛び込み、新店舗立ち上げ海外出張など忙しい日々を送っているようだった。お互いに一旦諸々ひと段落して図らずも年末にこうして、お互いの今年を乗り越え、労い合えることが余計に嬉しい。

仕事のこと、家族のこと、最近読んで良かった記事や文章、姉と話していると自分が伝えようとしていることを、この人は分かってくれていると感じる。自分がそう感じているだけかもしれない、もちろん全てではないし、事情を知らないことや姉に伝えていない部分は多い。互いに知らないこと・知らせていないことだらけかもしれない、けどニュアンスや伝えたい形そのまま受け取ってくれる、受け取ろうとしてくれているのがわかる。言葉を聞いて頭に思い浮かぶイメージが同じなのか、口を突いて出てくるフレーズがよく被ることが多い、そのこともそう思わせるのかもしれない。逆に私は姉の話を充分に受け取ることが出来ているのかとも振り返る。

お店が閉店時間になったが、まだ話し足りなくて、解散して別々に帰るのはさみしいなと思っていたところ、旦那さんが大阪出張で不在ということもあり、我が家に泊まりに来てくれることになった。もてなす装備(テレビとか?)がない我が家は、人が遊びに来てもらうことがあまりない。でも気心知れた人が泊まりに来てくれると嬉しい。自宅に到着してjoni mitchellをかけながらお茶を飲んでお風呂に入り寝る準備をする。電気を消してからも話が尽きず、口角が上がっているのを感じながら眠りにつく。朝、近所のパン屋と惣菜屋に行って遅めの朝ごはんを買ってくる。途中、普段空いているか分からない骨董屋さんの前で店主らしきほうき掃除しているお婆さんに姉が声をかける。姉と歩いていると自然に人との交流に巻き込まれていく。皿に盛り付けながら、姉が窓際に机を移動しようと提案してくれる。日光に当たって光るパン、いい温度の紅茶、小さい頃よくクリスマスの頃にかけて二人で踊っていたCDの曲を検索して流す、懐かしさと心地良さで自然とニコニコしていたと思う。

姉は生活を楽しむ術をよく知っていて、その愉しみを周りの人にも分けてくれるような人であると思う。「あなたのことが大切です」というメッセージを、その言葉以外の形でも伝えようとしてくれる。姉は私含め人のことをよく褒めてくれるよねという話題になった時、姉自身も自分のことをよく褒めると言っていた。振り返ってみると自分のことを褒めること、私はあまりしていない気もする。もしかしたら、自分のしたことを褒めるほどのことではないと思っている節があるかもねと話す。

自分がこういう状態であって欲しいという規範的な理想が強い割に 弛まぬ努力をし続けられるわけでもない、日々小さな自己嫌悪を積み重ねてきたおかげで褒められることがあっても、自分に値しないその言葉は着心地の悪さを強く感じさせる。自分のことを言われているのに、いやいや、もっとすごい人がいるからと思うのは実は人と自分を比べている証左で、自分と他人、どちらがより出来ているか優れているかを気にしているからでは、と自分のひとりよがりな差別性をおぞましく思ったりする。

人は人で自分は自分と思っているマインドもあるし、一挙手一投足を比べているわけではない中で、それでもやはり、自分は大したことがないと(大したことはないのは事実ながら)卑屈になり比較することに起因する褒められ下手は改善していきたい。自分のために自分を褒めること、褒めてあげることを手間だと思っては、自分が蔑ろになっていくばかりだ。