ヨルシカを、というかn-bunaを知ったのはたぶん2018年。その年に当時小学生の私がVOCALOIDの界隈に足を踏み入れたから。知識欲ゆえに新旧の有名曲をとにかくたくさん聴いていた道すがらでn-bunaにも触れた。5年ほど前はヨルシカもニコニコに公式で投稿されていたので、靴の花火はその時に「なんかやってるんだなー」くらいの認識で一緒に聴いた記憶がある。たぶん。
本当にそれくらいの認識だったのだが、その翌年に投稿されて、ニコニコのランキングにあったから何気なく再生しただから僕は音楽を辞めたがなんか心に残った。それからヨルシカを追い始めた。また、その頃から入り浸り始めたぼからんまとめ掲示板というサイトの住民がやたらとn-buna好きで、それに影響されたのも多少ある。
エルマとエイミーの物語が終わり、金がなくてアルバムを買えず苦しみながら、LINE Musicの(今はもう亡い)1ヶ月に1回無料でフル音源を聴けるサービスを月初めに必ず使ってアルバム曲を聴き込み、盗作おじさんと奥さんの話が始まって終わり、掲示板の住民と再生数推移にキャッキャし、9ヶ月ほど投稿が空いた時期があってハラハラしながら新曲を待ち、掲示板はもう2年半前に閉鎖されて、趣味が変わって推しも感性も少しずつ変わって、よく聴くときとあまり聴かないときの周期ができて、中1だったわたしは高3ゼロ学期なわけである。
前の年末に飛行機に乗った。充電温存のために機内オーディオチャンネルで音楽を聴こうと思ったら、セトリの中にヨルシカのアルジャーノンがあった。そういや最近ヨルシカ聴いてなかったな、買ったアルバム入れてる古いウォークマンぶっ壊れたしな、と思いながら聴いた。個人的にお気に入りのヨルシカ曲は思想犯や八月、某、月明かりとか藍二乗とか準透明少年だったり、多分ぐわわーって感じのロックが好きなのだけど、機内ではじめて聴いたアルジャーノンはすごく優しくて、つらくて、理由もないのに鼻の奥がツンとした。フライト時間の関係でもう一度聞けないのを、機内オーディオの巻き戻し再生などができないのを、WiFi設備なしの機材だからYouTubeでも聴けないのを本当に恨んだ。
歌詞の深い考察も特段できず、ライブにも行ったことがないし、そもそも有名になってから知ったし、あと正直メンバーのお二人自身のことにはさほど興味も知識もない、我ながらにわかだなあと思うけど、ずっとそう思いながらなんだかんだで5年も経ってしまった。たぶんここから先5年も聴き続けるんだろうな、と思っている。5年後といったら大学4年生の冬だ。中1から高2で相当わたしが変わっているのだから、その頃には変わっているどころじゃないかもしれない。それでも、少しずつ膨らむパンを眺めるように、とn-bunaは喩えた。わたしは少しずつ変わってふかふかのパンになれるだろうか。どうせならじゅわ~っとバターが染みる皮に砂糖がこれでもかとまぶされたサクサクのクソデカメロンパンがいい。まだオーブンにすら入っていないわたしは何になるのだろう。
ヨルシカはなんだか、好きの津波が数ヶ月〜1年おきに一気に来る。今それなのと、好きになってから=だから僕は音楽を辞めたの投稿からマジで5年も経つのかあとぼんやり思ったのでこれを記してみた。中1が大学受験生になってしまう年月。はぁ長。鬱。
PS.好きな歌詞の話。
エルマ収録の「声」という楽曲。言葉よりずっと重い人生はマシンガン、という歌詞が多分一番好きだ。綺麗な言葉が続くのに、急にマシンガンという物々しい単語が同じ流れの中に出てきて、ほんのり漂う異物感がなぜか気に入っている。歌詞で、言葉で人の心を撃ち抜くどころか、人生そのものを作品として銃弾に使うイカレ方をsuisさんの歌声が中和しててよい。唯美主義とか芸術至上主義は個人的な思想としては相容れない。
本当に超盛り上がるところでもなんでもなくて何気ないのに心に残っている歌詞といえば、もう一つは「八月、某、月明かり」の『八月某 月明かり 自転車で飛んで 東伏見の高架橋 小平 富士見通りと商店街』。かつて北多摩に住んでいたので、エイミーがそこに本当にいる/いたようなリアルを感じてぞわっとする。
あと「451」で燃やして連呼の中に消費してが入っているのとか。この『燃やして、消費して』は誰かへの呼びかけなのか自分への呼びかけなのか、はたまた自分の行動の表記なのかとか。「風を食む」の心を値引きするという表現とか。この歌はあと80字とか。キリがない、やめよう。