わたしは基本的に根が非固定の人間である。わたしにとってカップリング名はいわばラベルのような二次的なもので、ある関係性の本質ではない。関係性の本質とはあくまでその当人同士の間にある感情と欲望、それに基づいてなされる具体的な会話や行為である。わたしはわたし以外の人の言語の体系とわたしが持っている言語の体系の秩序はそれぞれ全然違うしかたで成り立っていると思っているので、誰かがわたしが名づけるのとは違う名前である特定の関係性を名づけていることそのものに強い抵抗を感じることはあまりない。
一方で、名づけることそのものが問題なのだと言うこともできる。先ほどわたしが書いた考えは目録的言語観そのものだが、わたしたちはもともと個別に存在する関係性にあとからラベリングを行なっているのではなくて、カップリング名である特定の関係性を呼ぶことで初めてその関係性がはっきりと輪郭を持つというのは、一面では事実だろう。この立場に立つなら、カップリング名である関係性を呼ぶことそのものが自分の欲望を表明する一つの実践となる。つまり、例えばAとBの関係性を指して「AB」と発話すること自体が、「わたしはこのふたりの関係性を、Aが攻めとBが受けのBLとしてみなしたい」というメッセージを含み持つということである。カップリング名の発話によるこうした呼びかけは、同じような欲望を持つ人々を連帯させる効果も持っている。このような連帯に加わりたいとか、このカップリングしかないと強く/排他的(左右相手固定的)に思うことをカップリング帰属意識とわたしは呼んでいる。カップリング帰属意識に関してはのちほど詳しく述べる。
わたしの中で固定か非固定かというのは二者択一ではなくて程度の問題として経験されていると思う。厳密に言えば、わたしにとってカップリングとは単なる名前でもなければふたりの関係性に対する完全な"忠誠心"でもない。いい作品だと思えばなんでも見るが、カップリング名を発するとき「わたしはやっぱりこのふたりのBLがこの上ないほど好きだ」とか、「盛り上がってますかー!(イエー!)」とか周りに呼びかける気持ちがあることもまた事実である。カップリング帰属意識にも濃淡がある。
ここで問題になるのは所謂自カプではない作品をいい作品だと判断するのにどこ・どれくらいなら越境を許せるのかということであり、これは個々人の性/生に関する価値観が大きく関与していると思う。先ほどわたしは根が非固定と書いたが、わたしは受け攻めジェンダー規範自体はかなり強く持っている方で、例えば主人公属性は攻めだと思いがちだし、いわゆる美形ライバル枠は受けだと思いがちである(花流が典型的にこれ)。これはポテンシャルが高い方が攻めとか変/尖ってる人間は受けとか自分の中では色々あるのだが、結局こういう受け攻めジェンダーを決定づけているのは「こういう攻め/受けが見たい/見たくない」という個々人の欲望とトラウマだと思う。だから受け攻めの話をするのはむき出しの神経に触るようなものである(カップリングは人の欲望やトラウマに関係しているからこそ他人のカップリングの嗜好は尊重すべきだということも記しておく)。ちなみに、受け攻めジェンダーはあくまで"規範"なので、常に受け攻めジェンダーに則って行為がなされるとは限らない。つまり、実際の行為としては一時的ないしは継続的に逆になり、受け攻めジェンダー規範が攪乱されている状況に萌えるということがありうる(これは非固定の感覚の一つである)。
この受け攻めジェンダーの攪乱を好むCPと好まないCPとがあって、わたしの場合、土井利は後者である。簡単に言えばいわゆる左右相手完全固定なのだが、端的に言って苦しい。「左右相手(完全)固定」という表記はそれ自体で排他性を持つ表現だと思うのだが(左右と相手が違うCP表記のものは見ない/描かないということの"周囲への宣言"だから)、この排他性ゆえに、土井利を描く時にわたしの中にある土井利左右相手固定からはみ出るような土と利への欲望が切り捨てられているように感じる(それは身体の一部を削ぎ落とすようなものだ)。しかし見る側としては土井利に対して排他的なカップリング帰属意識を持っているのは事実である。つまり、CPの宣言によって見る作品を選別している(カップリング帰属意識が問題となるとき、作品の内容そのものというよりは、その作家が何のCPに帰属意識を持っているかが問題となる。つまり、CP表記だ)。このカップリング帰属意識というのが非常に厄介で、動作の仕方がナショナリズムに似ていて自分でも疲弊してしまう。ナショナリズムに似ているというのは、自カプへの帰属意識の有無で人を選別し、「日本スゴイ」と同じノリで「自カプスゴイ」をやりたくなってしまうということで、やれ数が多いだの上手い/好きな雰囲気の作品や作家が多いだの、そういうくだらないことを気にしてしまうということだ。これは自分が排他的であるせいで読めない作品がたくさんあることへの悔しさの捻れの形として出てくる。自分としてはさっさと自カプナショナリズムをやめてシンプルによくできた素敵な作品を摂取して最高になりたいのだが、自分の受け攻めジェンダーとか性への価値観とかはどうにもならないので、これがなかなか難しい。固定感情とカップリング帰属意識(自カプナショナリズム)は厳密に言えば違うものだが、切って考えるのが難しい概念だと思う。左右相手固定概念とナショナリズムはどうやって手を切ったらいいのだろうか?
これは自分への宿題として考え続けようと思う。左右相手固定感情について論じている論文とかありそうだけどまともに探していない。探そう。誰かBL論に詳しい方、おすすめの文献があればぜひご教示ください。