※映画『ぼくのお日さま』に関するけっこう容赦ない批判と『マルホランド・ドライブ』のネタバレを含みます。自分の鑑賞体験を大事にしたい方は読むのをお控えください。
ここ最近(※2024年10月当時)で映画をたくさん観た。公開前から観に行こうと決めていたタイトルより、一週間限定上映の文字に釣られてその日の気分で観に行った『マルホランド・ドライブ』が一番良かった。
『ぼくのお日さま』が期待に反してけっこう良くなかった……というかその日の鑑賞態度がわりと真面目だったせいでかなりまともにダメージを受けてしまった。まあわたしが斜に構えていたとしてもこの映画の問題点は無いことにはならないのだけれども、自分の心持ちとしては「真に受けない」が正解だったと思わされる映画だった。いろいろ言いたいことはあるのだが、「残酷だけど美しくて儚い」とか言えるのはそれが自分の属性ではない他者に向けられたたった一回しか起こらない出来事だからであって、あの出来事は当事者にとっては日常のうちにさまざまな強度で・場所で・機会で、何万回も遭遇させられる可能性のある暴力である。今更その暴力の場面だけを出されても、当事者が遭遇させられる暴力の一つになるだけだ。また、日常的に遭遇する可能性があるものだから、たいてい当事者には類似する暴力の経験があって、そのフラッシュバックもある。比較として引き合いに出すが、同じく同性愛者に対する差別行為の描写を含む映画である『異人たち』が上手いのは、差別に遭って傷ついた登場人物がその傷について話して癒されるシーンをきちんと描いているところである。差別の場面を目撃させられる当事者のケアをきちんとやっている。映画は特に鑑賞者の身体に対する干渉の度合いが大きい表現形式なんだから、シーンを目撃させられる観客の経験にマイノリティたちも含まれているということを作り手はより一層意識しなければいけないと思う。別に観客を傷つけるのがよくないとかバッドエンドがよくないとかそういう話をしているのではない。慰めるとかハッピーエンドにするとか以外にもいろいろ方法はある。たとえばあの映画の中で本人でも別の誰か一人でも、「あんなのはクソだ」とか「あんまりだ」とか、恨み言の一つを言ってくれれば良かったのにと思う。それだけであのゲイの監督に尊厳がある(そしてそれが不当に毀損された)ということが示せるのに。でもあの映画の中では誰も彼に尊厳があるとは宣言しない。「気持ち悪い」と言った少女の内面も、街を去った監督の内面も描かれない。すべて宙吊りにされている。この宙吊りの用い方は致命的である。人間が等しく持っているはずの尊厳について語ることを放棄しているように見える。ゲイの生活を脅かす要因の一つとしてシスヘテロの女の恋愛感情が据えられているのも、内面描写の欠如から非常にステレオタイプ的である(男性同性愛の邪魔をしたり、時に破壊したりする存在としての「女」の描写がありふれていることを思い出すと良い)。こうしてミソジニックでホモフォビア的な描写がきらきらして美しくエモーショナルな映像として撮られていることに、率直に反感を覚えた。ヒューマンドラマ風なのでなおさらたちが悪い。あたかも何か言っているふうだけど何も言っていないし、こんなの全然いい話でもなんでもないからな、と思った。
こういうこともあって、ここ最近はずっと宙吊りとか余白とか言われる表現についていろいろ考えていた。思い返してみれば、宙吊りや余白が強烈な作品は、それそのものでわたしの身体に強く何かを訴えてくる。クロード・ランズマンの『ショアー』(※)はホロコーストの生存者や目撃者の証言を撮ったドキュメンタリーフィルムだが、9時間半に及ぶ映像はあまりに長い沈黙と何も残っていない空間のショットに特徴付けられている。けれどもこの沈黙や空間の空白は何も語っていないのではない。かつてそこにあったはずの収容所、おびただしい数の殺戮、殺されて言葉を奪われた死人たちの沈黙、そしてそれらを垣間見た証言者たちの沈黙は、ホロコーストという出来事について強烈にわたしの身体に向かってある何かを訴えかけてくる。言葉にし得ない、言語に還元不可能な何か、言葉と裏腹のものを表現する技法として、宙吊りや余白があるのではないか。少なくともこれらの技法を「この問題についてわたしははっきりとした言明を行うことができない」と言い逃れするために使うべきではない。マイノリティを扱っておきながらマイノリティも人間だから人としての尊厳があるというくらいのことも描けずに作り手がはっきりものを言うことで傷つく覚悟もなく言い逃れするために宙吊りだの余白だのやるのは不誠実だと思う。そのつもりがなくても宙吊りや余白はしばしば作り手の逃避に陥りがちだから、やるなら相当慎重に効果の検証をやるべきだというのがわたしの考えである。
『マルホランド・ドライブ』はそういう意味で宙吊り……というか、あの有意味なひとつな物語として収拾させることの不可能さ、シンタクスの欠如の表現、カットどうしのズレが、むしろ映画というメディアが持っている魔術的な力(イリュージョン)をメタ的に呈示することに成功していて凄い。あとこれは前の日記にも書いたけれども、生粋のレズビアン映画だった。映画始まってこのふたりがくっついちゃえばいいのにな〜とか雑な(本当に雑な)思考で画面を眺めていたら、本当にくっつきはじめたので最高だった。この感覚ジャンプ作品で実現し得ないからな……。この話も異性愛者の男(しかも映画監督/権力者)に破滅させられる女性同性愛の話なのだが、この話は女優としてもレズビアンとしても破滅していくダイアンの強烈な嫉妬や羨望や恨みつらみが描かれていて、それがめちゃくちゃ痛切だから良い。物語前半でアダムがやたらと散々な目に遭うのでこいつは前世で何をしでかしたんだ……と思っていたけどぜんぶ観終わったらそりゃそうだと思うもんな。ダイアンの恨みを買いすぎている。あと前半のベティを見送る老男女がタクシーに乗り込んだあとの笑顔、こえーよ! 不穏すぎるだろ! と思っていたらこれもきっちり回収された。夢を抱いて旅立つ人を見送ったあとの笑顔なんだけど、そういうハッピーな状況で誤魔化せないほどの邪悪な表情だったし、それを映像で伝えるのが上手すぎる。そして性描写の描き方も上手いと思った。前半のレズビアンのセックスシーンはふたりの気持ちが通じあっていることがよくわかるようになっているし、後半出てくる自慰のシーンなんかは対照的にけっこうグロテスクで悲惨だ。加えて前半のベティのオーディションのシーンでは演技と称して相手の役者が極端に近づいてベタベタ触ってくるのに「ギャー!」となるし演技だからとだんだん乗せられていくベティも見ていて「やめな! 早く帰りな!」になるけれど(そしてその場にいた女たちが部屋を出たあと口々に相手役の俳優を罵るのも良い)、映画界における搾取、とりわけ性搾取に「ゲーッ」となるように撮られていることがわかるのが良い。このシーンが挟まることによって観客としてレズビアンのセックスシーンをどう観るのがいいのか釘を刺されている感じもあるし。カットどうしにはズレがあって謎も多いから明らかにすべてのカットをひとつの統合された物語として繋げることは不可能なのだが、誤解が生じたら困るシーンに関してはきちんと演出意図が伝わるように撮っている。こういうのは何が良くて何が悪いのかの分別がついていないと撮れないと思う。このあたりの作り手として手放すところと手放さないところの勘所を押さえるバランス感覚が凄い。たぶんぜんぶ緻密にやるタイプの監督なら中盤のクラブシレンシオのシーンはああならない。というかそもそも無いかもしれない。ともかく、中盤のクラブシレンシオの自己言及的な台詞も含めて映画表現としてめちゃくちゃ刺激的で面白い作品だった。感想も一定しなくて面白い。怖いし不穏だし笑えるし泣けるし意味がわからない。鳥肌が立つ。
『ぼくのお日さま』についてけっこういろいろ批判的なことを書いてきたが、けれどもこの作品を観ていなければ『マルホランド・ドライブ』でこういう感想は出なかっただろうから、そういう意味でやっぱりいろんな作品を観なければいけないし、同時にもっといろんな作品が作られなければいけないとも思う。一方でこういうことが言えるのも『ぼくのお日さま』みたいな表象や現実を経験しすぎていつでも反論の準備ができている大人になったからであって、これを子どもの頃に観たらもっと致命的だったかもしれないと思うと、こういう考えも悠長すぎるかもしれないが……。ともあれ、自分としては二次創作といえどもこれも創作のひとつで、作り手として責任持ちつつ彼らの話をしたいと思っているので、こうやって表現についていろいろ考える機会を持ち続けたいなと思う。 そして早く作品を描きたい! まだまだサーフカもイベントがあるようなので、そこでやりたい沢深の話ができるといいな。現実も原稿も頑張ろう。
※クロード・ランズマンは『ショアー』のあとに『ツァハール(イスラエル国防軍)』を撮ったりイスラエルタカ派を支持していたりと生粋のシオニストなので取り上げるのを迷ったのだが、宙吊りや余白の話をする上でわたしの中では避けられない作品なので取り上げた。ひとつ付言しておくならば、鵜飼哲・高橋哲哉『『ショアー』の衝撃』所収のランズマンのテクストから、反シオニズムの主張が引き出せてしまうのが皮肉だと思う。