songmuさんのこの記事を読んだ。
めっちゃよかった。特にここ。
私はインターネットの良さが長続きして欲しいと思っています。だから、私は自分の意見をなるべくオープンにしたいし、上手にオープンに発信できる表現力を磨いていきたいと思っています。
オープンに発信できることはスキルなんだなって。
発信はしてないこともないけど、会社内に閉じがちな近年の我が身を顧みて思ったのだ。
songmuさんのインターネットのよさが長続きしてほしいという思いに共感する。インターネットに助けられてきたし、今も助けられている。その割には、自分がよきインターネットを作ることにはあまり貢献できていない感覚がある。
なんでそうなっちゃってるんだっけな、ということを考えてみたい。
昔との違い
かつて(今よりは)外部発信していた頃と今との違いを考えると、いくつか思い浮かぶ。
自分のスキルと、それにともなって社会的評価が上がった
今所属している会社の文化やコミュニティが割と先鋭的である
社会の「寛容度」(?)が下がった
一つずつ考えてみよう。まずは、これからどうするのかということは一旦置いておいて、それぞれを分析するにとどめる。
自分のスキルと、それにともなって社会的評価が上がった
よく発信していた頃は、何につけても初心者だった。Javaのことをよく書いていた頃はJavaの初心者だったし、スクラムやアジャイルのことをよく書いていた頃はスクラムやアジャイルの初心者だった。
逆説的だが、初心者は発信しやすい。自他ともに初心者であると認識して・されていれば、厳密には正しくなかったり、やや視野の狭い発信内容であっても許容されやすいからだ。
これは、明らかに間違った内容やいい加減な内容を発信してもよい、不誠実でもよいということとは違う。もちろん、その時点でできる精一杯の発信をするし、した方がよい。ただ、結果的にやや不正確だったり、限定された領域での話であっても問題になりにくいという話だ。初心者であれば影響力も低く、間違っていたり偏っていたりする内容が不当に広まってしまうリスクも低いだろう。
社会的評価についても話の構造は似ている。周囲からいわゆる「駆け出しプログラマー」と認識されているなら、ややイマイチな発信をしてしまっても「駆け出しプログラマーがなんか言ってら」ですむ。厳しいツッコミを受けたとしても、むしろ学びと成長につながるだろう。
一方、周囲からいわゆる「シニアエンジニア」的な存在として認識されているなら、イマイチな発信をしてしまうことはその評判を損なうことにつながる。「あいつ大したことねーじゃん」。まあ、本当に大したことないのであれば、自己認識が改まる(高く評価しすぎて・されすぎていたということがわかる)ので、それはそれでいいこともある。ただ、それが怖いという気持ちも簡単には否定できない。
今所属している会社の文化やコミュニティが割と先鋭的である
今所属している会社・組織のことが僕は好きだし、誇らしいとも思っているが、結構ハイコンテキストなところがあり、異なる文脈を持つ人から見たときに拒否反応が生じる場合もあるかもしれない、という感覚がある。
今世の中で主流になっている手法や考え方に、「一見」反するようなことをやっていたりする、と言えばわかりやすいだろうか。
実際には反していないのかもしれない。というか、反していないと思う。すごく奇抜なことをやっているわけではなく、むしろ基本に忠実にやっている。でも、ただ世の中で流行しているやり方の真似をするのではなく、自分たちなりの考えをしっかり持ちながら取り組んでいる、という感じだ。
これは実のところ、すごく面白い。発信したら価値もあると思う。ただ、会社の取り組みに関わることを発信するのにやや及び腰になってしまう理由の一つではあるな、とも思う。
社会の「寛容度」(?)が下がった
ここはおそらく議論を呼ぶポイントであり、ゆえにあえてあまり掘り下げずにおこうと思っているが、この10年ほどで社会の「寛容度」(?)はかなり下がっているように思える。
ここで「寛容度」(?)が下がったと言っているのは、以下のような事象を指している。
ある文脈では正しいが、異なる文脈では正しくない内容を発信した際に、いわゆる「炎上」につながることが増えている
同じ「炎上」でも、以前だったらボヤ程度だったものが、大炎上に発展することが増えている
これらが普遍的・客観的に事実かどうかは今は問わないものとする。僕の発信が減っているという話の文脈において、僕個人がそう感じている、ということだ。また、「寛容度」(?)という言葉ももしかしたら適切ではないかもしれない。あくまで便宜的に使っている言葉だと理解してもらいたい。
要は、仮にスキルや社会的評価、会社の事情を脇に置いたとしても、それでもなんか怖い感じがするんだよな、という程度の話だと思ってもらえるとよい。
じゃ、どうしようね
さて、僕のインターネットへの発信が減っている理由が整理できた。
ここまで整理してみて、正直、「なんだ、これなら発信できるし、がんばっていきたいな」と感じている。ここからは、そこのところを整理してみる。
まず、スキルの話。これは、まあそうではあるんだけど、スキルが上がった分、正しいことを広い視野で書くこともできるようになっているはず。だから、実はハードルは特に上がっていない。
正確には、実際にスキルは上がっていても表現力の方が追いついてないみたいなこともありうるんだけど、幸い(?)僕はこういう文章をちまちま書いたりはしているから、その心配はそんなにないと思っている。
そして、社会的評価の話。これは書いてて「あ〜〜〜」ってなった。やー、いわゆるインポスター症候群ですな。今の(社内・社外からの)評価に見合わんのじゃないかって怖いんですわ。
いやーわかるよ、わかる。でもこれ、冷静に客観的に見たら、実力・自己評価・他者評価、全部一致した方が絶対いいですからね。うん。だから、社会的評価の話は、むしろ発信する理由になるんだな。しない理由じゃなくて、その逆だ。
次に、所属している会社の話。これも端的に言うと、発信しない理由というよりは、むしろ発信する理由だな、と思った。面白いことをやっているんだから、自信を持って発信していきたい。会社のためにも、社会(インターネット)のためにも。
ただ、ここはそれなりのスキルが必要になるんだと思う。「よくある話」なら、なんとなく書いても多くの人に伝わる。ある程度はじめから文脈が共有できているから。でも、特異性の高い話は、文脈を含めて丁寧に伝えないと伝わらない。そのためのスキルは必要になる。だから、磨いていこう。
最後に、寛容度(?)の話。これはまあ、どうなんだろうな。実際のところ、これが事実かどうかはよくわかってなかったりする。昔に比べると、異なるコミュニティがごちゃまぜにつながってしまっていて、でも価値観はくっきりと分かれている、みたいな状況にあるような感じはする。
うん、ここはまだ課題を捉えられてないんだな。そんなもの本当はないのかもしれないし、実際にあるのかもしれない。いずれにせよ、あるかないかわからないものを恐れても仕方ない、とは思う。最低限、songmuさんも言うように、ネガティブな発信は避けるようにするのが第一歩かな。
そして、インターネットにおいて、ネガティブな意見や感情は増幅しがちで、悲しい結末になることもあります。なので、私はネガティブな発信は避けるように心がけています。これは私が長くインターネットを楽しみたいからそうしているのです。
発信の練習をしていくぞ
というわけで、発信しなくなった理由のうち2つは実は「発信する理由」だということがわかり、もう1つは本当にあるのかどうかわからない、ということがわかった。
発信するしかない。
ただ、「簡単に、すぐに」できるわけではない、ということもわかっている。もっと「上手にオープンに発信できる表現力」が必要だ。
だから、練習をしていこうと思う。いきなり大きく、複雑な発信をするのではなく、小さなことを小さく発信する。そうする中で、表現力を磨いていく。
そこを目指して、少しずつやってみよう。