子どもの頃は、ゲームが「一番遠くまで行けるメディア」だと思っていた。
理由は2つあって、「消費するのにかかる時間が長いこと」と、「双方向性があること」だ。
RPGが典型的だが、プレイヤーが一つの物語に関わっている時間はたいてい数十時間に及ぶ。映画でも、小説でも、これほどの長時間関わることはほとんどない。相当長編の小説や漫画ならありうるかもしれないが、あくまで例外だ。
そして、双方向性。ゲームは自らの操作によって進めるものであるがゆえ、そこには物語に深く関わっている感覚、英語で言うとcommitmentの感覚が生じる。もちろん、デザインされたものではあるだろうが。
だから、小説でも、映画でも、漫画でも、アニメでもなく、ゲームでこそ一番遠くまで行ける。そう思っていた。
ところが、今日ふと気づいてしまった。小説にもその資格があることに。
小説に一番遠くまで行けるメディアの資格がある理由は、やはり2つある。「言葉だけを使う」こと、それから「十分長い」こと。
小説はゲーム(や映画、漫画)と違って、表現が言葉に限られている。それこそが、小説だからこそ遠くに行ける理由の1つめだ。
言葉は、解像度が低い。抽象度が高い、と言ってもいいだろうか。だからこそ、言葉によって想起される感覚やイメージは、逆説的に豊かになる。そして、そこに想起されるものは、読み手によっても大きく異なるだろう。
この特徴は、演劇にも通じる。演劇の表現は、映画に比べると限られる。舞台では、何もかも本物を用意するわけにはいかない。だからこそ、映画ではなく演劇だけが到達できる境地があることと、小説だからこそ遠くに行ける第一の理由とは、相似形だと思う。
もう1つは、十分長いこと。詩にも、言葉だけを使うことによる「遠くへ行く力」は備わっている。むしろ、詩は短いからこそ、瞬発力、跳躍力のようなものは、小説よりも強いかもしれない。
それでも、小説、特に長編小説の長さによってしか辿り着けない場所があるのだと思う。これはおそらく、ゲームの「消費するのにかかる時間が長い」という特徴にも通じる。
「長い話」によってしか生み出せないもの、伝えられないことがある。こんな当たり前のことに初めて気づいた。それは、僕が読み手として育ってきたということなのかもしれない。