「なんだかお父さんが具合悪いみたいで、トイレから30分くらい出てこないから、落ち着いたら救急に連れてってくれない?」と母から言われたのは4月7日日曜日、9時前だったと思う。何?具合悪いの?そうみたい、どこか痛いの?なんか背中が痛いって言ってるのよ、背中?なんだろうね、と話した5分後に、母は「やっぱり救急車呼ぶわ。痛がり方が普通じゃない」と決断。消防署本署が近い我が家にはあっという間に救急車が到着した。マスクをした男性3人がどやどやと家に上がり込み、患者さんはどちらですか?2階?階段急だし狭いな、毛布持ってきて、あと玄関のあたりちょっと土足で上がらせてもらいますのでね、ご了承ください、などとやり取りをして父の元へ。大声で名前や症状を確認して、大人2人がかりで階段を下ろして救急車に乗せ、しばらく経ってから南へ走り出した。このときはまだわたしたち家族も、胆石か尿管結石ではないかと思っていたのだ。
ただ、着いた病院でCTを撮ったら心臓だということがわかり、ここでは対応できないからと再度救急車で県立病院に運ばれ、そのまま緊急手術。病名は急性大動脈解離、しかも緊急度の高いスタンフォードA型。友達のお父さんもお兄さんも同じ病気で亡くなっていることを思い出して、ひそかに覚悟した。手術は8時間ほどかかったそうで、もちろんそのままICUへ。あとから聞いた話だが、この時点で何もしなければ24時間もたなかったそうだ。
ひとまず裂けた血管を人工血管に置き換えたものの、なかなか意識が戻らないし、長年の喫煙習慣が仇となり、呼吸の状態が非常に悪かったそうだ。普通の人の半分くらいしか酸素を吸えておらず、人工呼吸器を外せば即窒息状態。おまけに手術のあいだに軽い脳梗塞を起こしたらしく、やや左半身の動きが悪い、麻痺が残るかもしれない、と言われ、わたしたちはただただ「はあ」と聞くしかなかった。結局ICUを出られたのは丸1ヶ月後、「2週間経って人工呼吸器を外せないのはかなり状態が悪い」「数ヶ月かかるかもしれない」といわれたあとのことだった。
1ヶ月後に一般病棟に移り、その1ヶ月で衰えた体の機能のリハビリ。ICUにいる間に気管切開をしていたので、管が入っていて自分の口から飲み食いすることができない。意識は1ヶ月少しで回復したけれど、面会はおのずと口パクと筆談になり、思うように言いたいことが伝わらないことが非常にストレスだったようだ。間違って解釈したり違うことを返したりすると、明らかに不満そうな顔を見せる。スケッチブックに言いたいことを書くけれど、読めるところとわからないところがあり、しかも脳梗塞の影響で左目の視野が欠けたそうで、スケッチブックの左半分はきれいなまま。歩いていても左側が見えていないので危ないし、もうこれは車は運転させられないね、と母と夫と話す。ただ、喉に入っていた管を抜いてからは、みるみるうちに回復するのが素人目にもはっきりわかった。人間の生命力ってすごい。
心臓血管外科がある病院は限られていて、個室から4人部屋に移り、当初はさらにリハビリの病院に転院するという話だった。それが、認知機能に問題はなく、多少の介助は必要だけれど日常生活でリハビリをしていくのがいちばんいいだろうということになり、思わぬ形で退院が早まることになった。正直な話、いちばん慌てたのはわたしたち家族だ。転院したらすこしずつ家の片付けをはじめて、これまで両親が住んでいた2階とわたしたちがいた1階の居住スペースを入れ替えるという算段でいたからだ。それが、退院が10日後と決まり、そこからはもう上を下への大騒ぎ。それまでも少しずつ片付けをはじめてはいたものの、ペースを上げないととても間に合わない。特に父の部屋は、わたしたちにはいらないものばかりに見え、膨大な数のゴミを出すことになった。教訓、「物を減らすに越したことはない」。物に愛着があったとしても、やがてそれは執着になるのだ。救いは、本人がいないところで片付けを進めることができたことだった。
そしていざ父が退院。さすがに階段の上り下りはできないものの、家の中であればゆっくり歩けるし、すこし庭に出ることもできる。「部屋のものはみんな処分していい」と言っていたときの殊勝さはどこへやら、「俺のものは何でも捨ててしまって」と文句を言っているが、それもすこし元気になってきた証拠なのかもしれない。栄養指導で減塩を命じられ、お醤油を好きにかけられなくなり、ラーメンのスープを飲むことができないのを嘆いてはいるが、それも生きて戻ったからこそ言えること。どうやらまだもうすこし、父と一緒にいることができそうだ。