私が人間を種として分析するように 人も私を人間として分析していること
あるいは、私が人間を個人として観察するように、人も私の個を観察していること
とても当たり前で常識だと思っている それが人間でコミュニケーションで世界の理!
けど 最近けっこうもどかしいかもしれん~
私がどこに当てるか選んで投げたボールを、相手も私の四肢の位置などを確認しながら投げてくる これってすごいこと
決して「ボールを持つとここに投げてくる人」じゃない、「私には、ここにボールを投げたい人」でしかない そんで私は受け取るの失敗したりする 相手ももちろん受け取れなかったり、投げるのを失敗したりする 失敗はノーカン? 失敗だと伝わることなんてほとんどないけど……
キャッチボールをしていくとどんどん自分も相手も変わっていって、お互いが気持ちよく投げあえるようになったり、反対に、お互いに望んでいないハードなものになっていく可能性もある……
片方が望んでいない←これ、よくあるよね
お互いに望んでいない←そんなわけないと思いきや、けっこうあるよな
コミュニケーションって面白い 一生飽きない最高の娯楽すぎ
使わない言葉がたくさんあるが、主張する必要性を感じるシーンがないというだけで秘密にしているとかではないため聞かれたら出てくる けどそもそも自発的には絶対に使わないなというだけでひとに合わせて使うものもある
私は使わないけどひとのそれは好きだなーという物、そこにはしゃいでいるところだけ見られて自分は使わないのにたくさんプレゼントしてもらえたりした記憶とかも ある
あと以前「どこに怒りポイントがあるか分からなくて怖い」と言われたことをいつまでも覚えている そういう人は何かに怒っている人を見ると「ここを避ければいい」という安心感を得るのだろうか
どうでもいいけどフォロワーとの何気ない会話で「俺のTwitterは信用するな、俺を信じてくれ」って言ったことあるけどアレってめちゃくちゃ真理だったのかもしれないな
ふむ なかなかいい露出だった……(コートを着ながら)