ばくさん、お久しぶりです。
お手紙を待っている一ヶ月は随分と長く感じるのに、書く側になると一ヶ月がとんでもなく短く感じるのはなんでなんだろう。ごはんを待っている20分と作っている20分の体感の違いに似てる。
あれからお仕事の具合はどうですか?仕事以外にも書き物をしたり本を読んだり、あちこち移動したり、ポッドキャストを聞いたりしてると思いますが、相変わらず手綱に絡まりながら叫んでますか?
最初にちょっとだけ私の近況を伝えさせてもらうと、ばくさんもご存知の通り、ここのところ猛烈な勢いで文章を書いていました。ひとまずは手持ちの色々な体験や経験から連想させて書いていたんですが、先日、ついにそれだけでは飽き足らずに現地調査へ赴いたりもしました。何かを好きになるというだけでなく、明確な目標や目的(私の場合は書くこと)が伴う場合の勢いの良さには代え難いものがあると、身をもって体感しています。
前回のお手紙にあった「北国は秋から始まる」という視点はとっても面白くてへぇ!と声を上げながら読みました。そう考えると、春夏秋冬という言葉は北国出身ではない人が考えた四字熟語なんだろうか。だって秋から始まるのが生活の環にしっくりくるなら「秋冬春夏」になるはずだよね?それと不思議なのは、英語には"春夏秋冬"該当する言葉がなくて(あるいは私が知らないだけであるのかも)four seasonsと表現するのだと思うんだけど、この場合どの季節を最初に持ってくるかは結構オープンな気がしません? 環状に巡るものの始発点を決めるのはめちゃくちゃ揉めそう(例えば山手線の駅名はどこからスタートするか、あるいはベンゼン環のどの炭素を一番とするか、空・山・海を巡る水の循環をどこから話すかなど)だから、このアイデアはいいかもしれないと思いました。みんなが争わなくて済みそう。もしかすると一番権力がある人とか声が大きなが決めることになるのかも。だめだ、それはそれで揉めそう。最悪の揉め方をしそう。ダメですね、終わり。
さて、気を取り直して。
実は前回のばくさんのお手紙が引き込まれてしまうほど面白くて、エーリッヒ・フロムを読もう!と思いたち次の日に本屋でフロムを買いました。しかしいまのところ、一行も読んでいません。私は完全に欲望に負けました。完膚なきまでに。ばくさんの言う通り、今猛烈に好きなものがあり、めちゃくちゃ虜になっています。書きたい文章をバタバタとキーボードで打ち、読みたい本を読み、博物館で写真を撮って、帰って疲れ果てた挙句に床で寝ていました。さっき思いついた二人の最高のシーンを書きたい、この文章が頭の中から抜けないうちに留めておきたい、早く形にしたいと狂ったように書いているうちにその機を逃してしまいました。なんと生ぬるい………!!
一方、ちょっと変な思考実験も行っていました。私が今楽しみを見出している作品は宝石を題材にしているのですが、ばくさんが(あるいはエーリッヒ・フロムが?)書いてくれていた「未成熟の形の愛」の共依存的は、どこか化学結合に似ているのでは?というものです。ちょっと唐突すぎるって?まぁまぁ、しばしお付き合いを。
化学結合にはいくつか種類があるんですが、ここは一番みなさんに馴染みのある(そんなことない?対象となる母集団によっては違いそうですが)イオン結合で話を進めていきましょう。おそらく理科の(化学の?)授業で唱えたことのある「水兵リーベー僕の船」という順に電子の数を増やしていく元素ですが、電子の数はその元素の特性を作り出すとともに、その元素の不安定さをも作り出します。
化学結合とは、原子やイオンが集まって分子や結晶を作るときの原子やイオンの結びつきのことで、イオン結合、共有結合および金属結合の3種類ある。
イオン結合はイオン結晶中で見られる結合で、陽イオンと陰イオンの間の静電気的な引力(クーロン力)による結合である。一般に、アルカリ金属やアルカリ土類金属など陽性の強い元素とハロゲンのように陰性の強い元素が、イオン結合を形成する。
引用元 : 東邦大学 "化学結合 (chemical bond)" 高校生のための科学用語集 https://www.toho-u.ac.jp/sci/biomol/glossary/chem/chemical_bond.html
だから相性のいい元素が互いに近づくと、一方が空いた穴を埋めるように電子を他者から能動的に奪います。その振る舞いは、もう一方の側から見れば不安定で厄介な電子という存在を受動的に手渡すことにみえ、そして最終的に二人は安定を手にするわけです。めでたいね。こういった不安定さを抱える元素は基本的には安定した状態(分子を構成する)を求め、あるいは宙ぶらりんの曖昧な状態からなんとか逃れようと静電気力によって引き合いますが、それは元素が元素である限り永遠に続くお見合いのように相手を探し続ける宿命にあります。熟慮の末にたどり着く「信念に下支えされた能動性、つまり愛」が元素にとっては「至るべき安定」だとするならば、分子結合をしていようがしていまいが、そこには決して永久的な安定はないんです。つまり、完全な状態というのは元素が元素である限り存在し得ない(もっと詳しく言うと例外はあると思いますが)わけです。
もちろん元素に孤独という概念はなく、安定した状態を愛と呼ぶこともできないけれど、たとえ結合を果たしても完全性に達しないという点では、私にはこの二つは非常に似たものに見えます。根本的な電子による不安定さは解消されておらず、大きな外からのエネルギーによって手を離しまた新しい相手を探すところもまた然り。そして、それらはバラバラになった後も(あるいは人と人が離れた後も)、また安定した状態を目指していきます。
でも、そう考えると、フロムの言う「共棲的結合とでも呼びうるような未成熟な形の愛」は外部からの大きなエネルギーによって破壊されたり切断されたりすることがあるのではないか、とも思いました。そういうことが本の中にも書かれていたりするのかな。支配/非支配の関係も同様に完全に固定されたものではなく、外から頭をガン!と殴るような強い刺激や衝撃の出会いがあったり(光や放射線、電気によって分子が分解されちゃう)、住環境がガラッと変わったり(熱や放射線に晒されると強く振動して結合がブチっとちぎれる)すると、人も元素も相手と離れざるを得ません。
緑色のCr20,は約590nmに吸収極大を示す。この吸収は三つのd電子をもつCr3+のd軌道,六つの02−(配位子)による八面体の場(配位子場)で分裂し,分裂したd軌道問で電子遷移が生じるためである。すなわち,Cr3+のd電子は590nm付近のエネルギーをもつ光を吸収して高いエネルギーのd軌道に移る。このような吸収を配位子場吸収という。
引用元 : 化学と教育 41巻 10号 (1993年) "誕生石の色" 藤田純之佑 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kakyoshi/41/10/41_KJ00003517627/_pdf
なんだかちょっとトンチというか屁理屈のようにも聞こえるかもしれないな。でも、こういった「メカニズム」の横展開が愛と化学の間で起こるのってなんだか面白くないですか?それに、映画や小説、フィクションではこういった変化から生まれる成長を題材として書くことが多いですよね。
唯一違うところは、元素の世界には愛という希望が存在しないということくらいかな。もしかしたらすごくロマンチックな化学者なら愛はあると言うかもしれないけど。
とはいえ、今度は自分の日々振り返ってみるとフロムの定義に基づいて「人を愛する」ということは日常ですごく少ない感じがする。最近の私にとってその行為に一番近いのは「旅行先で友達にお土産を買う」ですかね。気に入ってくれるかどうか、その人が送ったものを気にいるかどうかという瑣末なことは割とどっちでも良くて(もちろん喜んでくれたらそれはとっても嬉しい)相手に「あなたのことを大切に思っているよ」ということが伝わればそれが何より嬉しいです。お返事も、プレゼント返しもいらないから、ただただ私の愛情を送りたいという感じです。日本語のお土産というよりも、英語の「care package」という言葉の方がニュアンスが近いかな。
とはいえ、それが相手の失礼にならないか、邪魔にならないか、不快な思いをさせていないかということを気にしないかといえば……、いや、ほとんど気にしないな。不快な思いをさせていたら申し訳ないとは思うけど、それを先回りして悩むことはほとんどないかも。私はそこに明確な悪意や故意的な嫌がらせの意識がない限りは、そういうことは社会の中ではある一定確率起きるものだし、後から対話できる可能性にかけるしかないと思っている節があるようです。それから、私は多分ことが起きてからどうにかすればいい(むしろことが起きてからどうするかにその人の本質がある)と思っているのかもしれない。
うーん、でもばくさんが言っているのってそういうことじゃないよね?だめだ、この話は一旦ここまでにします。
なんかもう、往復書簡って前置きが長くなるものなんだと最近諦めを感じてます。ごめんね。
海外生活の話めちゃくちゃ面白く読みました。なんならゲラゲラ笑いました!ばくさんが挙げてくれてた食べ物を聞くと、だだっ広い店のディスプレイが頭をよぎって思わず職場でもぼけーっとしてしまいます。手を真っ赤なシグニチャーソースに染めながら腹がはち切れるまで蟹を食べたり、でっっっっっっかい肉をたいらげたらその健啖っぷりにレスラーみたいな店員にむちゃくちゃ気に入られたりした記憶が駆け抜けていきました。いやぁ、なんで異国の食文化ってあんなに思い出深いんだろうね。やっぱ血肉だから?(言い方に気をつけよう!)
と冗談はさておいて、私が以前いたラボで印象深かったのは、同じ研究室のメンバーの一人が「海外にいくと赤ちゃんみたいになんもできなくなる。大人になってからあんな無力な存在になることない」と言っていたことです。だからなのか、食べたことないものにチャレンジしたり、電車やバスの乗り方をその辺にいる人に教えてもらったりすることのハードルが日本にいる時よりもグッと下がる気がしています。加えて、私が海外で初めに出会った先生が"There is no stupid question. So if anything coming up in your mind, pls let me know."と言ってくれたことも大きかったと思います。それ以来、分からない、できない自分を受け入れることが随分と楽になりました。
そして一度安全なところから離れると、自分を構成しているものや、無意識に背負っている自負や責任感、自信、面白さ、難解さ、怒りや喜びがとても環境依存的であるということにもよく気付くようになる気がします。それが怖いという人がいるのもわかるし、それが自分にとって開放感につながる、と言う人がいるのも、なるほど。その両極性の根元が同じだと考えるとどちらもよくわかる気がします。
とはいえ、あまりにも日本人の女は幼く見えるのか、北欧に行った時には乗ったバスで四方八方の男女から話しかけられ「降りる駅わかる?」「変な人について行っちゃダメよ」「降りるの?私たちも同じ駅だから、重たいキャリーは私の旦那に持ってもらいなさい」などと本物の赤ちゃん接待を受けました。これにはさすがにちょっと困った。流石に恥ずかしいというか、「こちとら赤ちゃんじゃないんですよ!!なんのリサーチもなしに海外に来たりしませんから?!」と思いましたが、それはそれとして、みんないい人でなんだか嬉しかったです。一方別の国では、赤ちゃんだとナメられてスリに合いました。こんにゃろうめ。
なので、ばくさんの海外での特殊ステルススキルは本当に羨ましい限りです。
ところで、RED VINES好きってそもそも世の中に存在するんですか?スーパーで買ってる人を見かけたことなくない?それなのにいっつも棚にある!サーティーワンの大納言あずきくらい不可視化されたヘビーファンがいるとしか思えないよね。
あ、待って。いや、いますね。います、あれが好きで自分から選んで食べてる人。実は私の母はあれが大好きです。ちょっと信じ難いですが。決して味音痴ではなく、むしろ舌はよく肥えている人なんですが、いかんせん青春時代にあれを食べすぎたせいで好物になってしまったんじゃないかと思います。
ちなみに私が海外で苦手な食べ物第一位はトフィーです。コーヒーとかと一緒に食べるのがベターなんだと思いますが、あれだけは甘すぎてなかなか好きになれませんでした。なんというか、苦手というよりも「世の中にはもっと美味いものがあるのでわざわざこれを選ぶ理由がない」と言った方が正確かもしれない。まぁそもそも海外のお菓子は全般的に甘さも大味で、ちょっとコーヒーなしには食べられないな…と思うものも多いです。なので甘いものに関しては日本のもののバランスが一番絶妙だと思っています。手前味噌だけどね。
そして、苦手な食べ物ではないんですが、一人旅が多かった時はひと皿のデカさに大変困りました。レストランでいろんなものを食べてみたい!と思ってもひと皿が鍋の横に置かれてる具材が乗ってる大皿くらいあるので、スープとサラダを頼んだだけでお腹がはち切れそうになる。美味しいんだけど、どうせならメインディッシュもなにか食べたかったな……といつも思っていました。日本の定食みたいなちょっとずつ色々食べるっていうのがとっても恋しかったです。このあたりの食を取り巻く文化って結構不思議ですよね。日本や韓国はお膳の文化がありますが、海外は基本的にテーブルの文化。でも距離の近い韓国と日本でも、お茶碗やお皿を持つ持たないの違いがあったり、箸が木製か金属製かという違いがあったりして、その違いは全体像が似ているからこそとても際立つ。最近『隣の国のグルメイト』という番組をのんびり見ていると、松重豊が同じようなことを言っていてなんだか嬉しくなりました。もしまだ見ていなければ、ぜひ覗いてみてください。
「韓国と日本ってお隣の国同士なんだけれども、そういう食文化でちょっと違ったりするから、その違いを僕も知りたいんですよね。」
「そうですね。」
「元は同じこのサバなんだとか、それを調理法が違って食べてるわけじゃない。」
「そうですね。酢豚も同じタンスユクなのに違いますし。」
「へぇ。食べ比べてみたいってなるじゃないですか。」
引用元 : 『隣の国のグルメイト』シーズン1−1 Netflix
そうそう、ばくさんが書いてくれていた空の広さのことを読んでいると、ふとコペンハーゲンに行った時のことを思い出しました。9月だったんですが空は薄いグレーの曇天で、陽が落ちるともう肌寒く感じてそれがとても嬉しかったんです。もうね、せっかくの旅行には似つかわしくないくらいのパーフェクトな曇天だよ。でもそれがいい。不思議。駅の前には下をくぐるたくさんの線路を見下ろせる橋がかかっていて、欄干にはバラバラといろんな形の自転車が寄りかかっている。大きな首都駅から外に出て、色褪せた道路を少し歩いて振り返ってハッとしました。
コペンハーゲンの駅って、なぜだか東京駅を思い出すんですよ(赤いレンガづくりというだけの、なんの捻りもない理由ですが……)。でも駅周りは東京駅ほどゴミゴミしていない。東京駅も夜になると人は少なくなるんですが、昼間のどんよりした空気の中での、閑散とした首都の駅は、なぜか私にとって特別なものでした。背の高いビルが少なく、あまりギラギラとした雰囲気がない。いつまでも灯りの消えない高層ビルのオフィスエリアや、私を見下ろすたくさんのガラス窓がほとんどない。そして東京都とは違う冷たさ、距離感の遠さ、寂しさを感じます。街とその温度を見ていると、なるほどアキ・カウリスマキのような映画監督の撮る映画があのような幸薄さと静けさを持ちながらも、その中に淡々と繰り返す人間の生活がえんぴつの芯のように硬く宿っているのもなんだか頷けるのです(彼はフィンランド出身なので正確には違う国だけど、緯度が近いということでここはひとつ……)。そういった外からの異邦人の私が見知らぬ町に感じる懐かしさって、とっても身勝手だけど面白いですよね。ある面から見れば、それは時代や場所を問わない、一つの歴史や人間の中にある普遍性のようにも感じられて、私はそれがとても好きです。
都市それぞれには定数のようなものがあって、大阪に行けば、大阪ってなんて人が多いんだろうとぼくらは思うし、東京に来ると、さらにさらにそう思います。ぼくは東京で神戸にいるときのように行動するかというと、そうではないですね。定数に応じて行動形態が違ってきます。東京では雑踏のなかに身をゆだねます。しかし、神戸なら、誰もそういうゆだね方をしないし、私ももとよりです。
(中略)
さて、こういう定数の違いは国単位なのか、都市単位なのか。都市単位でしょうね。人間がつくった都市というのは、エルサレムでも何でもそうですけれども、千年単位でもちます。しかし、国というのはそんなにもちませんね。日本も、応仁の乱あたりで一遍切れたと考えてもいいぐらいだと、司馬遼太郎さんは言っておられるけれども、都市というのはしぶとい。
引用元:『精神科医がものを書くとき』 中井久夫(2009)
あ、もう一個思い出した。私が日本に対して思うのは、首都がとてもギラギラしていること。日本では行政の中心と経済の中心が完全に重なっているので、小さい頃はそれが当たり前だとずっと思っていました。国の首都ってそういうもんなんだ、と。けれど、実はそれって他の国でも当たり前なわけではないんですよね。だから、あまり飾り気のない首都を初めて見た時には少し驚きました。トルコとかも似たようなところがあるように思います。
ところで話は変わりますが、最近ばくさんの耳の調子はどうですか?実は最近、オーディブルを始めてみました。最初は本当に楽しく聞いていたのですが、最近では少しずつその頻度が落ちています。決してオーディブルで嫌な思いをしたとかではないんですが、ずっと耳から何かを入れているとだんだんと耳と脳が疲れてきてしまい、いざ聞こうと思って音声を流し始めても5秒くらいで「あっ、今は無理そう」と止めてしまう、を繰り返しています。ポッドキャストも「この人の話し方ならしばらく聞けそうだな」という人を見つけるとしばらく聞き続けるんですが、これもまた疲れて離れてしまいます。どうやら私は同じテンポ、同じ語り口、同じ視点のコンテンツをずっと聞き続けることが難しいみたいです。
それに加えて、最近の仕事の中では作業らしい作業もなく、あちこち宛にテキストを書くことが多いので、どうしても耳から入る「言葉(日本語、英語、韓国語、タイ語など言語を問わず)」が軒並みノイズになってしまうんですよね。つらいや。
歩いているときに聞いたりもするんですが、最近の移動はもっぱら電車で、電車に乗っている間は本を読みたくて、歩いている時はほとんどずっと英語の勉強をしてて、家に帰るとSwitch2を起動してミアレの街を駆け回って、夜はドラマを観て……。こうして振り返ってみると、ポッドキャストやオーディブルを聞くためには耳が空いているだけではダメで、脳のキャパシティとそれを受け取る体も予約枠が空いていないといけないみたいです。そして、1日のほとんどがすでに埋まっているというのも恐ろしい感じがします。じゅんさいの袋くらいパンパンです。針で刺せば一瞬ではじけそう。生活に余裕がなさすぎる。でもこれは自分で作り上げてしまっているところもあります。ゆとりをもって生きるとか、のんびりするという時間にいつも耐えられず、すぐに予定を詰めたり忙しくしたりしちゃうんですよね。若い頃はそれでも体がついてきてくれるのでいいんですけど、ハードワークに体が追いつかなくなってくるとこのスケジュールの立て方は本当に問題だなと思いながら生活をしています。これが生来のものなのか、それとも場所や環境に依存しているものなのか、ちょっと怪しいところです。
「原稿の依頼者に「患者さんの病んでいる部分、悪い部分」として「意欲がない、根気がない、大人げない」の三つが挙げてあるよ」
「そうだね。その問題は避けてとおれないね。患者さんの悩みの最大が「疲れやすさ」なのとまさに対応しているよ。そして、治療者も、この「疲れやすさ」というのがいちばん取っつきにくいんだ」
(中略)
「リラックスしないのかね」
「そこに第四の問題があって、長い間緊張していた人はリラックス状態になじめない。リラックスしたら疲労感も出てくるので嫌な感じだという人がけっこうあるよ。リラックスできる時からリラックス状態を楽しめる時まで若干の期間があるのでね。それで、緊張するほうにわざわざ逃げる人もいる。そのために病気が長引いているとしか思えない人もいる。それで、僕は、患者さんが疲労を訴える時に、身体が硬いか和らいかを聞く。時には触ってみる。硬い時には、緊張を伴う不快感だ。まず緊張がほぐれることが先決だろうね。しかし、柔らかい時もけっこうある。この時は、リラックスしているのだけれどそれを不快と捉えている場合である可能性を考える」
引用元:『精神科医がものを書くとき』 中井久夫(2009)
ただ同時に思ったのは、オーディブルでなければ気を向けなかったであろうものもたくさんある、ということ。本で読んだときには気にも止めていなかった一節が音声によって浮かび上がってきたり、音声の持つニュアンスで台詞の印象が変わったりするんですよね。不思議だ。一方で、同じ音声コンテンツでもラジオは(ポッドキャストは含みません)ライブ配信というリアルタイム性と、お便りによる相互のやりとりがある。これと比較すると、オーディブルは私にとってやや一方通行なコンテンツだと感じることもあります。感想をSNSで呟いたりすることで著者やナレーターとのコミュニケーションはあるのかもしれませんが、本を読んでいる時ほど作品と自分とのやりとりが多くは発生しないんです。はたと立ち止まって宙を見ながらなにかを考えたり、思いを巡らせたり、音声を止めてガリガリとメモを書いたりすることがほとんどない。
そう考えると、「朗読会」の存在が気になってくるんですよね。海外だと作家による朗読はよく聞くんですが、日本では声優などのスペシャリストがその役割を担っているようにも見えます。あれは演劇のような「場」がありながらも身体性の在り方がもっと限定的で、一体どんな感じなんだろうか。とはいえ私はほとんど行ったことがないんです。ばくさんは行ったことありますか?
ここまで書いてふと思ったんだけど、もしかしてYoutube配信とかライブ配信などの場所も「場」の在り方が変わっただけで、リアルタイム性や相互性を同じように持っているものなのかも。あぁ、それならみんながハマる理由がわかる気がする。
これはあくまでもN=1のサンプルなので決して汎化できるようなものではありませんが、私は「場」には結構強めに物理的な身体性を求めているみたいです。それがノイズになる人や、他の人に自分が迷惑をかけることが先立ってしまう人にとっては、もしかしたら劇場のような場所には一種のしんどさがあるのかもしれない。ばくさんはその辺どうですか?
あ、そろそろこのお手紙もしめなきゃ。
最近はめっぽう冷えてきたのでそろそろマフラーを出そうかと画策しています。最近分かったんですが、10年くらい同じマフラーをつかっています。マフラーって体型が変わっても買い換える必要がないし、なにより服全体の差し色になってとても最高アイテムですよね。いやぁ、冬が楽しみになってきた。そういえばばくさんのファッションとか身なり対する話って聞いたこと無かったよね? そんな大袈裟なものじゃなくてもいいので、冬を過ごすためのオススメがあれば教えて下さい。
ばくさんの住む地域は冬を過ごすと言うよりも「生き延びる」という表現の方が適切かもしれないけど、どうか身体には気をつけて、よく食べ、よく寝てくださいね。
2025年11月4日 おせちのカタログを眺めながら OPさん