OPさん、こんにちは。
往復書簡は終わりませんよ!(が!) 気づけばひと月以上経過していたのはどうしたことでしょうか。有り体に申し上げますと、完全に自分のキャパシティとタスクと時間の採算が合わず、あっぷあっぷしていました。あとは、戦後80年談話を読んでから書きたいと目論んでいたのですが一向に出そうにないね~とか思っていたら、もう秋でございます。どうしたことでしょうか。こちらは朝晩寒くて、もう羽織ものがないと厳しいお天気ですが、OPさんはいかがお過ごしでしょうか。新しい楽しみを見つけてる様子をTLで眺めていました。「推し」という単語には、既に様々な文脈もとい手垢がつけられてしまい、容易に口にすることへ変な心理的障壁が生まれてしまいましたが、没頭できる対象があることの楽しみはなににも代えられないですよね。
さて、いま私が住んでいるところの季節は大きく分けて「春+夏」と「秋+冬」の二つになります。それはとどのつまり四季じゃないのか、とツッコまれそうですが、まあ、きいてください。季節はあっという間に秋から滑りこむように冬になる。飽き飽きするほど仄暗い日々の行き止まりで、雪がとけたと思えば弾けたように春になってそのまま夏になる。そして、またあっという間に秋になり、その繰り返し。北国の季節は秋から説明した方がわかりやすい、ということにいま気づきました。春からじゃないんですね。秋もとい冬からなんです。
そんな地域の夏は、まるで浮かれたように過ぎていきます。連日のお祭りやイベント、さんさんと注ぐ太陽に、光と気温を謳歌している草木、どれだけ払っても除けない虫、ヘビ、虫、虫、道路を行き交うレンタカーとバイクの群れを見ていると、まるで酔ったような気分になります。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀さえずる小鳥と共に歌い暮して蕗ふきとり蓬よもぎ摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝かがりも消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円まどかな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。
引用元:『アイヌ神謡集』知里幸恵編訳 「序」より(1923)
それと比例してタスクが増え、そう、私は溺れていました。夏に。そう言えばなんかカッコよく聞こえますが、ようは単純に忙殺されていただけです。はい。お返事が遅くなってすみません。
忙しい日々が続くと、まるで自分が時間とタスクだけを通す穴になり果てたような心地がします。時間に余裕があるときには、一つひとつを受けとめたり流したり、もう少し考えることもできるけど、余裕がないときにはそうはいかず、ただただスパスパと流れていくレーンの検品だけをしている。その日々が終わり、ひと息つくと、そこにはぽっかりと空いた穴だけが残されていて、ボケーッとしています。
いま、そのじわじわと戻りつつ、縮みつつある穴を自分で眺めながら思うのは、忙しいと自分を自分自身の支配の及ぶ領域から弾き出してしまうのだな、ということです。社会生活を行なっていれば、そこには自分でコントロールできるものとコントロールできないものがあり、それを選択したりしなかったりして舵取りをする、ということは理解しています。そのコントロールの手綱を握ったり放したりが巧みな方を見ると、惚れ惚れします。なぜなら、私は手綱に絡まっている方なので。
あくまで個人単位の話ですが、私はこの生活上の支配・被支配の手綱の扱いが破茶滅茶で(苦手、とかではなく、破茶滅茶、が適していると考えましたので、それに従い心の原文ママ)、それが「切り替えの苦手さ」に繋がっているようにも思います。なので、OPさんが紹介されていた「体は寝るモードみたいですよ。ほら、あなたも休みましょうね〜」には目からウロコが落ちました。なるほど。なるほど……? ←まだ、この程度です。
特定の単語に全てを収斂させてはいけないとは思いつつも、結局「執着」も「切り替え」も支配・被支配の範疇なのかもしれない、とか考えています。ただ、これは頭の先の思いつきなので、もう少しフレームに則って考えないといけない。宿題です。
言葉の意味というのはいつでも厄介なものだが、ここでも、答えは恣意的なものとならざるをえない。大事なのは、「愛」と言ったとき、どういった種類の結合のことを言っているのかを、私たちが了解していることだ。「愛」と言ったときに、実存の問題にたいする、熟慮の末の答えとしての愛のことを指しているのか、それとも共棲的結合とでも呼びうるような未成熟な形の愛のことを言っているのか。以下の記述においては、前者だけを愛と呼ぶつもりだが、まず後者から「愛」に関する議論をはじめよう。心理的な共棲的結合の場合には、ふたりの体はそれぞれ独立しているが、心理的にはどちらにも似たような愛着がある。
共棲的結合の受動的な形は、服従の関係である。
(中略)
その反対、つまり共機的融合の能動的な形は支配である。
(中略)
マゾヒスティックな人がサディスティックな人に依存しているのと同じくらい、サデイスティックな人も自分に服従する人物に依存している。どちらも相手なしには生きていけない。両者のちがいは、サディスティックな人は命令し、利用し、傷つけ、侮辱し、マゾヒスティックな人は命令され、利用され、傷つけられ、侮辱される、というだけだ。表面的にはかなりちがうが、より深い感情面では、両者の相違点は共通点よりも少ない。その共通点とは、完全性に到達しない融合という点である。これが理解できれば、同じひとりの人が、ふつうは別々の対象にたいして、サディストにもマゾヒストにもなりうるという事実も、それほど意外ではなくなる。たとえばヒトラーは、民衆にたいしてはサディスティックにふるまったが、運命、歴史、そして自然という「高位の力」にたいしてはマゾヒスティックだった。彼の末路、すなわち全面的敗北のなかでの自殺は、全面的支配という彼の夢に劣らず、彼の特徴をよくあらわしている。
引用元:『愛するということ』エーリッヒ・フロム 「第二章 愛の理論」より(1956)
長! 引用だけでお返事が終わってしまう! だけど、ここの一節をどうか引かせてください。この本を初めて読んだ時にも衝撃を受けたものですが、今なおこの一節は鮮烈に胸を打ちます。なぜなら、こうした図式によって“運営される集団”を、場所を変え姿を変えて、数多見てきてなお、「この通りだ」と思うことが多いからです。もちろん全てではないです。でも、今となっては、こうした姿もまた、人間に備わった基本的な機能なのだろうか、とも思うんです。
戦争は絶対反対です。暴力も、そしてありとあらゆる形をした搾取も。その根源には、こうした“支配・被支配”的な能動性があるんでしょう。それを理解したうえで、日常に立ち返って、それでは”ワタシ”が抱く「推し」への熱狂はどう抱えたらいいのか。美味しいものを食べたいという欲求はどう扱えばいいのか。程度問題だろ、とも思いますが、そのアジャストを理性だけに委ねていいのか、否、委ねられるのだろうか。というところで、また自分で自分を支配しているだけのような気分にもなります。
私の中にも、OPさんの言うところの「狼男」が住んでいます。その結果、ワインと日本酒は人前で飲まない、という地道で生活に根差した経験則のハックも生まれました。前頭葉がヤワヤワになると、狼男が飛び出しやすくなるんですね。でも先日、そこそこいいワインをいただいて、まあ味覚に負けて飲んでしまったのですが、その結果「女になんか生まれたくなかった」と泣き叫んだそうです。少人数の身近な人しかいないクローズドな場で命拾いしました。そして澱のある赤ワインは危険です。狼男を抱えて生きるのは、なんと言ったらいいのか、スリリングだ(そうとしか言えなくて草)。
話は戻りまして、先ほど引用したフロムの本は、巻末で「愛とは信念と勇気に下支えされた能動性である」(要約)と結んでいます。
人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。
引用元:『愛するということ』エーリッヒ・フロム 「第四章 愛の習練」より(1956)
結局のところ、この愛なる能動性と、暴力的な能動性との間で、呻いているんだなあと思う。罠みたいですよね。良かれと思って伸ばした手が、誰かを傷つけてしまうなんてね(どっかの歌詞?)。人生ってそんなもんだよと言われればそうなんですが、まあ、それでもやっぱり人はあまり傷つけたくないもんです。それは同時に、自分も傷つきたくないからでもある。うーん、これには明確な、ばちっとした正解がありません。どこまでも、モダモダとした話になってしまうので、ここいらで納めておきます。
はい、ここまでが前置きです(?)。 ここから、いただいていた質問とか、問いに答えていきます。同人誌のあとがきは長ければ長いほどいいですからね。それみたいなもんです(そうかな?)。
私が一発当てたいこと、ですよね。とはいえ、私が一発当たってほしいことは単純でしょうもないです。宝くじ当たらないかな~とか(買ってもいないのに)、自分の文章が売れないかな~とか(書いてもいないのに)。そんな程度の妄想で、3億あったらこんな家を……いやいやこの間取りなら5億必要だな、とか考えているんです。しょうもない。まさに捕らぬ狸の皮算用です。ちなみに、あんな家がいいな、こんな本棚がいいなとか考えていると、気づいたら眠れることが多いです。しょうもない妄想にも効用がある。
OPさんと私が生活を送ったことのある国は違うけれど、サブウェイのくだりはとても共感しながら読みました。あの時、マクドナルドとパンダエクスプレスとタコベルが確実に私の命を繋いでくれていた。
あの日々は楽しいことばかりではなかったけれど、それでも食の違いは楽しんでいた気がします。サブウェイもよく行きました。最初は注文の仕方もよくわからなくて、とんでもないサンドイッチになって、笑いながら食べたな~。コーヒーが美味しいと気づいたのもこの頃で、今じゃあ立派なコーヒー党です。チョコが隕石みたいに練りこまれたクッキーや、シュガーグレイズまみれのドーナツ、パストラミがまるで断層になってるサンドイッチに、圧力鍋で揚げられてふっくらしたフライドチキンは、今でもたまに恋しくなる味です。
そうそう、海外生活の面白いことというか、私の特技を海外生活の中で発見したんです。私は自分の持ち物(リュックとかカバン)含めた存在の気配をまるっと消すことができるみたいなんです。これのメリットとしては、一度も置き引きやスリにあったことがないことと、割とデンジャラスなエリアもヌル~と通り過ぎてくることができます。デメリットとしては、居るのに気づいてもらえないことです。ノックしてドアを開けたのに、声を出すまで気づかれなかったことがありました。良いのか悪いのかわかりません。
それでもなによりあの場所は、空が広くて好きでした。同じ空のはずなのにぜんぜん違う顔の空をしていて、繋がっているのに違うもんなんだなあとか思ったことを覚えています。そうそう、風の匂いも違います。よく、外国から日本に帰ってきた邦人が、日本の空港は醤油っぽい匂いがする、とか言いますよね。私は残念ながらその匂いを感じたことはないのですが、国によって風の匂いが違うのはわかります。トランジットで降り立った空港でも、それぞれに匂いが違うし。人々の歩き方も違う。光も違うから空間の色あいも違う気がします。そして間違いなく、あの時私は“異邦人”だったのですが、それがとても心地よかったことも覚えています。まるきり異質に振り切った存在は、空気のようになれるんですね。
食べ物の話ばかりしていたらお腹が空いてきたのでそろそろ締めますが、前段と後段の温度差が激しいまま終わりそうです。でも、日常と思想って地続きだからね(?)。やむなしヤムチャです(??)。
冷えこんでくると如実に脂質を摂取したくなります。寒い日の味噌バターラーメンったら! 今まさに、その欲求と戦いつつ、体重計の数字が私を追いかけてきているので、大人しく鶏むね肉を煮ています。今年は比較的、寒い冬になるみたいですね。あんなに暑い夏のあとに寒い冬って、どうかしちゃうよ。秋口は風邪をひきやすい季節です。どうかご自愛して、元気にモリモリやっていきましょうね。
そういえば、海外生活で「これだけはどうも口に合わなかった」ものはありますか? 私はRED VINESというリコリス菓子です。ただのリコリス飴とかは大丈夫なのに、あれだけは合いませんでした。主に食感が。でもまあ、そんなこともあるよね……。
2025年9月22日 暑さ寒さも彼岸までってホントだね ba9