2025年12月17日 ba9

未完の調律
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公開:2025/12/17

OPさん、いかがお過ごしでしょうか。 

雪が降ったり、地面が揺れたり、なかなか落ち着けない今日この頃です。師走を見計らってこんな仕打ちをしているんだとすれば、天はなかなか意地悪です。おまけに積雪70cmのお土産もついてきました。いらん。雪を楽しめるのは膝下まで。それ以上は災害。除雪車と除雪車を運転する人に感謝しかありません。

過ごしはじめると慣れるもので、0℃~-9℃までは「冬らしいね」と受け取るようになってきました。流石に-10℃から下は「着こみますか」という感じで、-20℃を切ったら「ふむ、なかなか寒い」という感じ。でも不思議なことに、体感で寒さが一番こたえるのは、5℃から13℃くらいなんです。なぜなのかなあ、これは不思議です。 

——川に落ちたときに、火もなかったら助かりませんか。

 日高とか十勝とかああいうしばれ(寒さ)の強いところに冬に行って、そこで川に落ちて長靴の中に水を入れたとすると、みんな靴を脱いで靴下を絞って履くでしょう。それは駄目なんです。間違ってもそんなことをしたら駄目なんです。すぐに凍傷になってしまうから。

 そういうしばれの強いところでは、長靴の中の水を抜かないでドボドボッと長靴の中で水がたまっていても、そのまま歩くと、水が靴の中で温かくなってくるんですよ。足が重い軽いの理屈でなく生きようという信念でやるんです。

 水分をガチッと絞り取ってしまうと中ですぐに凍るんですよ。そして凍傷になって歩けなくなるんです。以前、実際に川に落ちた人がいて、私が水を抜かないようにと言って、その人はなんとか凍傷にもならずに助かったものだから、おかげさまで助かったって感謝されたことがありました。

『クマにあったらどうするか』姉崎等 著/片山龍峯 聞き書き/畠山泰英 編

 ところで、私の冬の装いは、タウンユースから屋外作業用にすっかり遷移してまいりました。簡単に言うと、『北の国から』の五郎さんのような恰好です。楽で機能的なスタイル。なので、そんなに参考にならなさそう……、と一抹の不安と共に思うのですが、比較すると面白いかもしれないので、いくつか挙げてみます。

まず、寒い時に、守るべきは末端と背中でございます。なお、首と名のつくところは既に覆われている状態を前提に話を進めます。そうそう、私もマフラーが大好き。マフラーを巻くと一気に冬の気分が高まる、ウィンターウキウキアイテム。親から譲り受けたマフラーは、今でもとっておきのお気に入り、なんですが、マフラーは解けて巻き込まれると危ないので、最近はもっぱらネックウォーマーを愛用しています。嗚呼、愛しの襟巻。

身体の末端である手と足を守るために冬用の手袋と冬用のブーツを履くのはもちろんですが(いずれも防水仕様)、実は頭も末端ですので帽子があると格段にぬくいです。耳が覆えるとなお良い。鼻と頬も寒くてつらい場合にはバラクラバ(最近はおしゃれなのもありますが、この場合ようは目出し帽)がいいです。あと、手袋って意外と滑るしモゴモゴしますよね。そんな時には防寒テムレス。簡単にいうと裏起毛のゴム手袋なんですが、これがな~んて便利なのか。冬の屋外作業はこれで決まりですし、冬の冷たい水でのつらい皿洗いでも活躍します。全部ワークマンにあります。

そして、背中が冷えると内臓から冷えてしまうので、マジで寒い時には薄めのベストを着てからダウンジャケットを着ます。そしてなにより下着が大事。意外と汗をかくのが冬ですから、汗冷えしないよう汗を逃がす素材が大事です。そう、メリノウールです。最近は安価に手に入るようになってきましたが、かつては登山用しかなくてなかなかお財布に苦しいものでした。自然素材なのでちくちくしないし、お肌が弱い人にもおすすめです。全部ワークマンにあります。

決してそんなつもりはないけれども、一企業のまわしもののようになってしまった。ありがとうワークマン、今日もご安全に。

ここまで読んでみてお分かりかと思いますが、どうやら私は専門性や機能性の高いものが好き。ホームセンターとか工具店とか登山道具店とか、だ~いすき。合羽橋や伊東屋は至高。使うわけでもないのに、眺めているだけで幸せな気持ちになります。そんな傾向で服を選んでいたら、いつしかクローゼットの中が黒と紺と白ばかりになってしまった。最近は努めて色のあるものを選ぶようにしています。OPさんのお洋服はカラフルですよね。いつも素敵な色合いだ、と思っています。どんな基準で選んでいますか? ついつい選んじゃう形、色とかありますか?

あとそうそう、私は身体の線を拾わないような、余裕のある服が好きです。小さいころから比較的大柄な体格であったこともあって、服選びは人生において苦難と困難の連続でした。今はすっかり解脱して、メンズラインをのびのびと着用しています。いや、日本のウィメンズラインは細すぎるし小さすぎるしポケットがなさすぎる。なめとんのか? いや、実際なめているんでしょう。肩幅衣文掛の推定骨量2.8kg女もいること、本国のアパレル業界に知らしめておきたいですよ。刮目せよ、この骨格を。 

「あんたは、いい娘になって王子様と結婚するんじゃないの。そういうきれいな服着て、宝石とかつけて」

「……こんな服、好きじゃない」

 突然、尚子の表情が曇った。

「こんな服も、髪型も、靴も鞄も好きじゃない」

「じゃあどうして着てんの。お嬢さんなら、いくらでも好きな洋服買い放題なんじゃないの」

「これは、お母様の服なの」

 尚子は俯いて、小声で言った。

「お母様は、今は、お家にはいなくて……私の服は全部、お母様が残していったお洋服なの。どれも、元はお父様が買ったもの。お母様のために。昔は外商を家まで呼んでたらしいわ。それで、お父様の気に入ったものだけ買っていたの。部屋着もよそ行きも、全部」

 ブラウスの、フリルのついた標がエアコンの風に揺れる。どうりで古臭い服だと思った。実際古いものだったのだ。

「この髪型も……お化粧をしないのも、みんなみんな、お母様がそうしてたから。周りの人が私をダサい、古臭いって思ってるのなんて分かってるわ。でも、仕方ないの。お嫁に行くまでは、私は内樹の家のものだから。お父様のおかげでここまで育ったから、服くらい」

「でも、嫌なんでしょ」

「結婚したら、違う服が着られるわ。あと少しのことだから、我慢も辛くない」

「今度は旦那の好みの服を着させられるだけかも」

『ババヤガの夜』 王谷晶 著

 

さて、前置きが長いのはいつものことですし、まだまだ続きます。

 耳あたりは一進一退といったところです。でも、少しばかり耳がひらいてきたのか、新しく好みのアーティストを見つけることができました。

▼『Man I Need』Olivia Dean

▼『overcome』skott

Olivia DeanはTwitterで流れてきたところで知り、RTしたところ、OPさんにも気に入ってもらえて嬉しかったです。声はムースなのに軽やかなメロディラインとおしゃれな和音進行がだいすき。

Skottは北欧はスウェーデンのシンガーソングライター。なんといったらいいのか……ロードオブザリング系とでもいうか、こうした広い世界観と落ち着いた曲調と和音進行がいい。Enyaに似ているかも?

 ▼『Anywere is』enya

 いや、ちゃんと改めて聞いたらそんなに似てないな。でも、私の脳内では同じフォルダに振り分けられています。あるよね、そういうこと(あるのか?)。

そうそう、私は特に「場」にこだわりはないですね。最近はオンライン配信も増えてきて、出不精としてはありがたい。でも、映画館とか、客席が真っ暗になるライブ会場は好きです。自分の身体の輪郭がわからなくなって、溶けて対象に没入できることがベストなので、椅子の座り心地や、周囲の雑音の有無が重要になってきます。だから、混みそうな日はハナからチケットは取らない。集中できないと、如実にイライラしだす未熟な人間なんですよ……。

そういえば朗読会って行ったことないなあ。そもそも、あんまり朗読を耳にすることがないです。せっかちすぎて、「自分で読みたいな」とか思っちゃう。野暮オブ野暮。オーディブルもこのせっかちさが邪魔をして、挫折したんでした。作家の朗読ってたしかに日本であまり聞かないですよね。海外だと詩人が詩を朗読する、ってのはあるけれども。やはり、文学性のちがいなんでしょうか。日本だとそれにあたるのが歌会や句会なのかな?

 

それにしても、耳から入ってくるものってけっこう難しいですよね。OPさんがなっている状態には、大変親近感と共感をおぼえます。なんというか、耳から入らないんですよね。耳から入ってそのまま抜けていくこともあるけど、脳がスルーする気力がないときにはそれもできない。というか、改めて読むとOPさんは歩いているときも英語の勉強をしているんですか? 電柱にぶつかったりしませんか? 車や自転車に気をつけてください、ほんとうに。でも、仰る通り、OPさんのパンッパンのじゅんさいの袋のような生活に、オーディブルやポッドキャストが入り込む余地がないのかもしれませんね。

面白いことを見聞きしたんです。じゅうぶんに検証・実証されていないもので恐縮なんですが、「腸腰筋は緊張やトラウマを蓄積・記憶する」というものです。腸腰筋とは、背骨と大腿骨を結び、上半身と下半身を接続する身体の奥の筋肉です。この筋肉が、とある恐怖の対象を前にして、それに対して闘争・逃走・凍結の反応が起きるとき、人体は腸腰筋を縮めます。というのも、これは元々、体を丸め、腕や足を胴体の前にすることで胴体を防御する姿勢を取りたい、という、生存本能があるからです。そして、腸腰筋が縮むことで背骨も後湾、肋骨が下がることで横隔膜の動きを抑制して呼吸を素早く最小限に留めます。素早い呼吸は素早い動きに対応できますからね。でも、これが一時の反応で済めばいいですが、もし防御反応を取らざるを得ない状況が長い時間に及ぶと、呼吸が浅い状態が続き、結果、全身の筋肉の緊張を引き起こすのです。よく、整体業界では「腰痛は怒りの感情から引き起こされる」といわれます。腰痛もちの一人として、これはとても理解できる話です。色んなところで色んな人に腰を見てもらった結果、私の身体で最も固まっているのは腸腰筋である、ということに辿り着いたからでもあります。でも、未だに腸腰筋を乗りこなすことはできていません。歯みがきのように毎日ストレッチをしても、パキッと効果を感じることはできないからです。まあ、整体において「パキッとした効果」なんてありえないし、ありえたとしたらそれは身体の恒常性を無視しているので、信用しない方がいいんですけどね。

ええと、話を戻してまとめると、つまり身体は心の反応ととても密接だ、ということです。意識的、無意識的問わず。だから、もしかしたら、OPさんのパンッパンのじゅんさいの袋のような日々も、身体からアプローチを試みたら余白・余裕が生まれるんじゃないかな、とふと思ったんです。でも、この身体的なアプローチって、ほんとうに人それぞれ。私は筋肉が緊張しやすいので過度な筋トレやハードなスポーツは向いていないけれど、ひたすらの散歩やストレッチは合っています。走れば走るほど筋肉がほぐれるって人もいたし、水泳が向いているって人も、ヨガが最高って人もいる。どれが一番というより、どれが合うか、なんですよねこれは。

でもまあ、社会が“そうさせてくれない”ことも頭の片隅で考えています。あまり個人と社会を連結させすぎるのもよくないし、全員が全員そうではないことは前提です。でも、営業と営業の合間に整体店に駆け込んできて、30分でどうにかしてくれと言われ、アドバイスも聞かずに金だけ払っていく背中を見送っていると、なんともやるせない気持ちになるものです。24時間働けますかに始まり、働いて×5のまこと愚かしい流行語大賞を見ていると、労働及び社会及び国家って……という気持ちにならざるを得ません。ネット書店のカートの中で会計ボタンを待機している本の中に、『虚弱に生きる』(著:絶対に終電を逃さない女)があります。見かけは頑強、中身はやや虚弱の人間として、読むのを楽しみにしている一冊です。

(よく見た目だけで、高血圧そう、とか、酒飲みそう、とか、なんでも食えそう、とか言われるんですが、酒飲み以外合ってなくていつもウケてます)

 

書きたいことはまだまだあるんだけど、ええと、無理矢理つぎに進めると、いま書いているこのお返事で、往復書簡は9回目です。9回目ですよ。すごいねえ。

 

6月に始めて、9回目。早いような、短かったような、それでもずっと長いあいだ話し続けていたような、そんな不思議な気持ちでこれを書いています。

9回目を迎えるにあたり、これまでのやり取りも全て読み返してみました。自分で言うのもなんだけれども、とても私たちらしい会話だと思ったんです。特に、どちらかが立てた問いかけに対して、すぐ次回に明確には答えないで、すこし間を空けてからそれらしき話をしだすところ。色んな分野から話題を引っ張ってきて、それでもなんだか話が通じていたり、通じていなくてもそれはそのままにしておくところ。話題が縦横無尽にわんさか出てきても、どこかでつながっているところ。きっと往復書簡を極めている人(どんな人?)が読んだら歯がゆくてたまらなく思われるのでしょうが、私はこの会話が、いいなあ、としみじみ思ったんでした。

往復書簡は難しい、という話を少し前にOPさんがされていました。自分の話だけだと独りよがりなような気がして、という感じで。でも、私はそれでいい(こともある)のでは、と、前回の「お土産」の話を読みながら、そう思ったんです。私もどちらかというと、お土産をあまり考えずにばかすか入れて送るタイプです。もちろん、それが許される相手と状況に甘えた行動ですが、お土産を手にした瞬間にビビッと「これはあの人に送りたいぜ!」という直感に、従うことにしています。

少し違うけれど、「親の心子知らず」という言葉があります。意味としては、親が子を思う深い愛情や配慮を、子どもは理解せず、勝手気ままに振る舞ってしまうこと、とあります。ですが、親であれ子であれ、他人の気持ちを完璧に推し量ることはできないものです。まあ、この「推し量り」がべらぼうに上手い人もいるので、それはもう天賦の才と後天的努力の結晶だとして。でもやっぱり私は、他人は他人だとしておきたいんですね。

残念ながら「他人は他人だ」というと、冷たい人のように思われてしまうのが悲しいところですが、他人は他人であるからこそ、だから言葉があるんだよね、ということを言いたいのです。

言葉は、もちろんこうして書き起こされた文字でも、声に出された音でもあり、そしてお土産などの物や、ジェスチャーなどの振る舞いに託されたもの、も含まれる、と私は思っています。他人だって、そして自分との会話すら、そこには広義の言葉がある。だから、広義の、どんな形の言葉でも伝えないと伝わらない。当たり前のことすぎるけれど、このことを取りこぼしていることが実は多いように思います。

そして、この「あらゆる形式の言葉をまずは伝えていくこと」を、私は、フロムの言うところの「愛とは信念と勇気に下支えされた能動性である」、の一種だと思っているんです……うーむ。審議に入りつつ、続けます。

「言葉」って、画一的なようで全くもっててんでばらばら。集団を形成していると、内輪のワードも発生してくるし、地域差もあるし、なにより究極的には個人差がある。

そこで化学結合の話です(そこで?)。たぶん私は、OPさんの比喩を少しずらした場所に持っていってしまうかもしれません。しばしお付き合いください。

前回のOPさんの文章を読んでいて思ったのは、化学結合は、「なぜ人は他者を必要としてしまうのか」を考えるうえで、とても納得感のあるものだ、ということでした。キーボードを打っている今のこの自分、言い換えれば人体もまた、元素が寄り集まって運営されているものです。最小単位の元素ですら安定性を求めてうろうろしているのであれば、この人体およびそこに司る思考もまた、そうした“動き”を求めることは妥当で、納得感があります。ロマンチックだし。このどうしようもない人間の色んなあれこれを、「元素単位からそうだもんな」と自分を納得させることができますし。それに、元素単位で安定を希求するその動きが、かの有名なMedia Naranja、オレンジの片割れ、という言葉を生み出したと思えば、さらに趣深い。元々が不安定であるからこそ、はじめからひとつであった、という神話的な物語を発生させるんですね。

元素はそれ自体では不安定で、安定を求めて結合する。その動きは必然で、選択の余地がありません。奪う・渡す、引き合う・離れる、といった(ロマンチックに感じるけれども本来としては)メカニズムだけがあります。

一方で、人は元素と同じように不安定で、同じように他者を必要とし、化学結合のように出会って別れてを繰り返す。でも、元素が繋ぎ重なった結果の人という存在はより複雑さを増しています。他人は他人で、距離は自動的には埋まらず、奪ってしまえば安定する、というわけにもいかない(し、そんな構造が社会にあれば否としたい)。そこで、その出会った人と人の間に発生するのが「言葉」なんじゃないか、と思ったんです。文字や声だけでなく、お土産や振る舞いも含めた、広義の「言葉」を、「自分以外の他人」に差し出し続けて、「わたしとあなた」のことを表現し続けています。

よかったね、元素。たくさん寄り集まった結果の人間が、形はどうあれ言葉という愛をやりくりしていますよ。まあ、戦争はやめろ金輪際するな、ほんとうに。

 

……と、長々とここまで書いてきました。これまでで一番ながいお返事を書いてしまった。ちなみに私はどんどん長くなってるんですよね、おい、どうしたことだよ。小説の5000字とお返事の5000字は同じ文字数でも質量がちがうのが不思議です。そして、これだけ書いても、まだ途中。化学結合も、言葉も、本も、愛も、それぞれの体験や好きな食べ物や服装も。

それを踏まえて、質問です。OPさんにとって、人と人とのあいだにある「言葉」は、どんなものですか。結ぶものに近いのか、それとも距離を測るものか。

私にとって「言葉」は灯台のようなものです。目印にもなれば最果てでもあって、それでもここにいますんでね、と示すもの。無責任すぎるだろうか? でも、そのくらいがいいなあ、って思っています。

 

ああ~まだ書きたいことがあるのに! 海外生活の話もふまえて、彬子女王の『赤と青のガウン』を読んだりしていたんですよ。また思い出したことがあって、紙面に(紙面に?)余裕があるときに差し込みますね。海外あるある、ヘアカットどうする問題とか、病院どうする問題とか。 

「英国の料理はまずいよ」

  留学する前にほんとうにたくさんの方からいわれた言葉である。行く前にかなり脅されていたせいか、実際食べてみると「まずくはない」気がした。でも、平均的にあまりおいしくないというのは事実である。英国にはおいしいものを食べることに情熱を燃やす人が少ない気がする。これはプロテスタントの一派であるピューリタン(清教徒)が贅沢を嫌ったことによるものらしく、ひと昔前までは外食といえばフィッシュ・アンド・チップスしかなかったそうだ。

『赤と青のガウン オックスフォード留学記』 彬子女王 著

 

でもたくさん書けて楽しかった。たくさん書いたのでお腹がすきました。みかんを食べて寝ることにします。明日の朝の私が、白目をひん剥いて修正してくれるでしょう(しましたby朝の私)。 

2025年もそろそろ終わり。少し気が早いけど、よいお年を! 来年も体と心を大切に、元気に楽しく暴れていきましょうね。

 

2025年12月18日 最近熟睡できているけどこれは冬眠かもしれないな ba9

@enroute_tuning
ばくさんとOPさんの往復書簡