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2026年6月18日 ba9

未完の調律
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公開:2026/6/18

 OPさん、こんにちは。

  忙しい日々をお過ごしだったこと、タイムライン越しにもひしひしと感じられました。どうして「予定」だとか「些事」だとかって、いっときに集中するんでしょうか。もう少し散らばってくれないかな、とカレンダーアプリのがらんとしたところを眺めながら思うのですが、がらんとしたところもがらんとしたところで、なんだかんだと必要なことをしているものだから、それはそれでいいのかもしれません。

 さて、そんなこんなで、実はこの往復書簡も始めてから一年が経過していたのでした。この一年、たくさんのことを成したようで、たくさんのことを置き去りにしてきたような気がします。OPさんと東京の文学フリマ会場をぶらぶらとし、とある別の往復書簡に出会わなければこの場も無かったでしょう。そう思えば、人生とは時のなかに散りばめられた偶然の星の上を渡るようなものですね。とまあ、こんなポエミックな出だしはさておき。

 さて、これを読んでもわかるように、やはり彼の行動の根底にもまず自己存在証明への渇望がある。上温湯青年はサハラの灼熱ではなく、いわば自己存在証明を激しく求めて渇死した。何から何まで他人とちがう自分という人間の生き方を取りもどすことがサハラをめざす動悸の根底にあり、そのオリジナルへの渇望はとりもなおさず世間の規範、類型的な人生に埋没することへの恐怖にも似た嫌悪感につながっている。

 前面にたち死、それを乗り越えるための論理は中嶋正宏と同じなのだ。

 こうした二十代の破滅的な冒険家の文章を読み、何を感じるだろうか。短絡的で浅薄だと否定的に感じるだろうか。あるいは世間の規範や普通につつましくくらすことにたいする敵愾心にも似た侮辱に辟易するだろうか。社会に背を向けるような態度を子供っぽいと冷笑するだろうか。

 『43歳頂点論』 角幡雄介

 最近のわたくしとしましては、燃え尽きていたところです。燃え尽きを自覚するのは、ほんの少し抵抗がある。負けた、ような気になるからかもしれません。勝ち負けなんてそこにはないのにね。きっともう少し前から“燃え尽き”の予兆はありました。なんとも認めがたくてそのまま走ってきたものの、最後のさいごに大きな山を越えたところで、燃え尽きを認めざるを得なくなったのでした。

 といっても、これは全くトラジックなものではないのです。ほんとうなら、まあ、燃え尽きない方がいいんでしょう。これは、そのほうが得、と言い換えられます。燃え尽きないように歩みを進める方法など、専門的なものから民間療法的なものまでそこらじゅうに溢れています。ですが、一旦火がつけば取り憑かれたように物事に集中するタイプの人間に、それらは逆にハードルが高いものです。燃え尽きない方がいい。でも、どうしても燃え尽きてしまうなら、燃え尽きてしまってもそこからどう立ち直るかを考えた方がいい、ということで、ここしばらくは「わたしは燃え尽きています」と自分に向けて唱えています。まずなにごとも自覚から。そう、こうして私は、わたしという内部に向けて、外部としての自分の言葉を活用することもできるんですよね。

  OPさんからのお便りの、「言葉」についてのお話はどれも興味深く読みました。頷きながら、私も「言葉」について考えたことをこれから書いていきます。

  まずはじめに、言葉、というものを改めて考えるとき、私の中には「思考としての言葉」と「反応としての言葉」があるように思います。

 例えば「反応としての言葉」は、ビジネス定型文や冠婚葬祭マナー、さらに言えば気心知れた仲間内で通用するフレーズやSNSやネットで氾濫するミームなどもそれに含まれるでしょう。これらには共通して社会性があり、それゆえに誰にでも届くような形をしており、実際多くに届くようで、届かない(届けられない)場面もある。

 余談ではありますが、私は社会人になってビジネス定型文に出会ったときに感動したんです。定型文とは、決まったレールであり、完成図のあるレゴです。マナーや作法に近いような気もします。その通りに作っておけば、互いの了承の上で物事が進むのですから、なんて便利な代物だろうと思っていました。とはいえ、社会の荒波で揉まれればそれは幻想だったと気づきます。定型文とは、ある一部の内輪ノリであり、ミームです。内輪ノリは更なる内輪ノリを呼ぶもので、定型文という形而下から、暗黙の了解(全然了解してないが)や権力勾配を利用した押し付け(ハラスメントってやつだよ)などの形而上、が現れたのです……形而上・形而下をこんな形で使って怒られないだろうか? ともあれ、感想としては「ケッ!」です。結局どこまでいっても内輪ノリは内輪ノリ、同じ穴の狢だったわけですよ。とはいえ、ビジネス定型文はある種の入場チケットでもあったと後々になって思い、その点では感謝しました。人間に、ではありません。ビジネス定型文に。余談終わり。

 次に「思考としての言葉」は、そのまま言葉通りの意味なのですが、思考からそのまま取り出された生のままの言葉、とでもいいましょうか。思考の煩雑さと複雑さをそのまま言葉にしたものは、「反応としての言葉」ほどの伝達速度はなく、多くの人には届かない(可能性がある)けれども、一部の人の深くに刺さる。正しく意味として「社会性」と対になるかどうかはわかりませんが、仮にこれを言葉の哲学性と呼びたいと思います。

 こうした前提をもって、次に、OPさんが挙げた三つ目の「言葉は人から出ることで客体となる一方で、同時に、完全に帰属性を失うわけではない」ことについて、少し異なるアプローチで書かせてください。

 私は常々、同じ単語・同じ話の内容であっても、発信する人が違えば、それらは異なる意味をもつということを不思議に思っていました。どうやら、言葉には、その個々人のバックグラウンド、つまり少し言葉が大きいけれど、その人の「人生」から発せられるものであるということに、最近(になってようやく)思い至ったのです。これは雑な例ですが、都市部生まれの人が言う「自然豊かだね」と、農村地域生まれの人が言う「自然豊かだね」は、それぞれ意味が異なる、といった具合に。獣医師の方がいう動物と、酪農家の方がいう動物が、それぞれ意味が異なる、といった具合に。

 とはいえ、この理解は諸刃の剣です。言葉には人生が否が応でも(受け取り手が切り離すか、さらに推し量るかは個々人の選択としてある上でなお)乗っかります。その人の歩んできた道のり、物語、つまり人生が、その人の言葉に深みや重みを出す場面もあります。ですが、言葉とは外部であり社会的なものでもあります。すると、その個々人の人生を自他問わず勝手に判断し、推測し、固定する可能性だってあるということです。わたしはこれを、差別の種だと思っています。他者の人生を「想像すること」と、自分の中に「先入観を持つこと」は、まるで兄弟のように隣り合っているのでしょう。よく、差別解消の文脈で「相手のことを想像する」ことが解決策のひとつとして語られることがありますが、これは半分正解で、半分間違いなのだと、今となっては思います。なぜなら先述したように、それらは兄弟のようなもの、もしくはコインの表裏のようなものだからです。どちらにでも成る、そんな可能性のあるものなのだといえます。

 しかしながら、誰もが想像力を退け、額面上の言葉だけでやり取りし、想像したり勘違いしたりすることなくコミュニケーションを交わすのもそれはそれで味気ない。もしこんな世界があるのだとしたら、小説や映画などは必要なくなってしまいそうです。話がダラダラと長くなりましたが、つまり、そしていずれにしても私は、この世界に、社会に、家庭に、隣人との間に、そして個々人の中に、多様な言葉が在ってほしいと願うのです。だって人間は、そして人生は、多様なんだから。

 多様な言葉が容認されるのと、多様な人生が容認されるのと、どちらが先で後なのかはわかりませんが、とにかく私は現状の、ほんの少しだけでもはみ出たものを見つけたら目の色を変えて摘み取るような世情や雰囲気をひどく憂慮しています。しかも権力者側の人間がそれを平気で行なう。たまげたもんです。

(「ポリティカル・コレクトネス」もある種で言葉の摘み取りだと捉えられているきらいがありますが、私見のうえで、私はこれを非権力者側による抵抗としての言葉や態度の「指摘」であると考えています)

 

 日本人は空気を読むと言われがちだが、空気にとらわれない生き方の代表格が「いきり」だとするならば、その構図はなかなか貧相である。空気を読まない生き方には、本来、豊かな選択肢が用意されているはずだし、新たな選択肢が半永久的に生まれ続けているはずなのだが、「いきり」に占有されているのではないかとの疑いがある。「そういうことになってるのだから、特に何も言わずにいよう」vs「自分はこう思ってんだから、これに決まってんだろといきってみる」の対決。これは暗い。重い。辛い。ますます社会が疲弊してしまう。

『いきりの構造』 武田砂鉄

 

 では、この流れに飲みこまれないためには、どうするか。ひじょうに大きな話をしたあとで極々小さな話になりますが、私はそれを、「内輪ノリを自覚し・遠ざける」ことだと考えているのです。内輪ノリは楽しい。楽だからです。ツーと言ったらカーなんですから。とある固有名詞を耳にしたら、平気で武器を振りかざしていいんですから。同じ人間に対して、人間が。

 内輪ノリは思考を省略することです。重ねて言いますが、内輪ノリは楽しい。全てを排せとは言いません、私だって内輪ノリに興じます。ですが、内輪ノリにはある種の無視と強要が在る。その集団において、“そこ”に居ない人を排して、“そこ”に居る人に強要する力学の作用のことだと理解しています。あくまで個人的に、私は、この点に恐ろしさを感じるからこそ、自覚的でありたいと思うのです。

 とはいえ、団結したり連帯しないと砕けない壁というものもある、というのも悩ましいところです。たしかに数は力になります。そもそも、そんな悪政を働くんじゃないよというところではありますが……とはいえ人類の歴史上悪政のない時代はない(ほんとか?)ので、ここは仕方ないのでしょうか。とはいえ、数が集団になり、内輪になり、そうした際に生まれる暴力性については、政治的立ち位置に関係なく、発生するものだと見受けられます。社会運動や政治活動に、気さくに参加できないのもこうした要因があるのではなかろうか、特に左翼・リベラル系の。とまあ、先述した通り、これは政治的立ち位置に関係なく、万人が考えていくべき課題であるはずです(話がデカ!)。

 とまあ、ここまでは「人間が人間と交わす“言語”や“対人コミュニケーション”としての言葉」を主に取り扱ってきました。ここからは、OPさんからいただいた「身体」についての質問と併せて、上記以外の「言葉」、つまり、言語を伴わない態度やサインとしてこの世界中に散らばるコトバについて考えながら書いていきたいと思います。考えながら書いているので、支離滅裂かもしれませんが、それはまあ、いつものことか!

 私はわたし以外の身体を有したことがないので、「身体」を語るときには自分の身体しか基準にできません。なのでまず、私がどんな身体を持っていて、自分でどう思っているかをあらかじめ簡単に連ねておきます。

 小学校のころからガタイがでかく、ランドセルは小4の終わりに腕が入らなくなったので以降はリュック登校でした。身長も体重も平均以上で、着ることのできる服や靴を探すことにいつも神経をすり減らしています。自分の身体に合う服・靴・装飾品がない、ということは想像以上に屈辱的です。平均値ではない自分には価値がない、そう社会に言われているように感じるからです。決して、ファッションに合わせて切磋琢磨し美しく在ろうとすることを否定しているわけではありません。明日着る服がほしいだけなんですけどね。ユニクロなどファストファッションのブランドでは、特定のサイズ以上はだいたいオンラインショップ限定です。返品交換は無料といっても、試着をせずに(できずに)博打のように服を選ぶしかないのです。

 IFの話ですが、もし私の身体にも合うようなおしゃれで多様なラインナップが誰にでも届くように衣料品店に並んでいたら。私はもっとファッションやおしゃれに興味を持ったかもしれないし、持たなかったかもしれない。その選択肢すらなかった、ということを、全くファッションに興味がないままこの年齢になった私は思っているわけです。

 「ボディ・ポジティブ」については個人的にかなりエンパワメントされました。とはいえ、まあ、この国ではなかなか難しいでしょう。ここ最近の政治状況を見渡しても、さらにその道は狭まっているように感じます。多様である必要などない、そう言わんばかりの政治ですから。

 暗い話ばかりしてもなんなので、私の憧れの身体、こうなりたいと思う身体について話させてください。そう、リア・リプリーです(?)。彼女はWWE(World Wrestling Entertainment)に所属するオーストラリア出身の女性プロレスラー。私はプロレスには全く明るくないのですが、彼女のInstagramだけはフォローし、追っかけています。とにかくかっこいい。好き。語彙力がどこかへ行ってしまう。筋骨隆々だけどチャーミングで愛らしく、素敵だなあと眺めています。私はどう転んでも細身の妖精さんのような姿にはなれませんし、せっかくならこうした逞しい姿になりたい、そう最近は思っています。

「あっ 汚れちゃうよ?」

「いいんです。よこしまな気持ちで着た服なので」

「よこしま?」

「おじさんたち、好きそうって」

「アッハハハ……おばさんも好きだよ。かわいいよ、それ。似合ってる」

「私も……かわいいなって。私に似合うと思って買ったんです」

 『銀河の一票』 第一話 元政治家秘書とスナックのママが都知事選に挑む!?

 

 つまり(!?!?)、「身体」、そして「衣服」もまた、言外の「言葉」として社会の中で大きな意味を持っている、ということを思うのです。今日は社外との打ち合わせがあるからこの服にしよう、今日は誰にも会わないからこれでいいや、など、服は自分の身に纏うものでありながら、かなり他者を帯びた選択をされていることが多いものだと思います。逆に、自分はこの服が好きだからどんな場面でもこれを着る、というこだわりもまた、他者という前提があってそれを回避しているわけですから、優先するかしないかは別にして、いずれにしても「服を着る」ということは、自分と他人の間にあるのです。それに、自分にその意図がなくても、他者に着ている服で勝手に判断されることだってある。たまに、SNSなどで「みずぼらしい服を着ている人ほど大富豪」みたいな話が流れてきますが、それは逆を言えば「いかに服装や身なりで人を判断しているか」ということでもあります。

 こ~んな風潮の中で、自分の身体を自分で認めるだけでも大きな意味があって、そして抵抗だよな!!! って叫びたくなりますよ。叫んでる。自分の身体は、誰のものでもなく自分のもの。まずはここから、そう思います。

 

 さて……かなり「言葉」の意味を拡大してしまいました。また返信に難しいものを書いてしまいました……か? ほかにも、私がさいきん折に触れて何回も反芻している「自然界における言語外の言語」についても書きたかったのですが、収集がつかなくなりそうなので、またどこかで。ああ、あと、「思考としての言葉」についても全然掘り下げられませんでした。「思考としての言葉」は、つまりまあ、この往復書簡ってことです。ね。

  そうです、往復書簡は唐突に始まり、そして唐突に終わるのです(?)。

 去年が暑すぎたのか、今年が涼しいのか、比較的すごしやすい日々が続いています。夏本番はどうなるのだろうか? 生き延びて、いきましょうね。

 

2026年6月18日 今日も今日とて山へ ba9

@enroute_tuning
ばくさんとOPさんの往復書簡