OPさん、こんにちは。
そういえば、最近酒をほとんど飲まなくなったんです。機会があれば飲みますが、それもよほど気心の知れた人とでなければできるだけ避けたいな、と思うようになりました。酒自体の味が好きだったのか、飲みかわす場の雰囲気が好きだったのか、それともアルコールがもたらす酩酊によって一時でも身の回りの懸念事項が緩慢になってゆるされたような気になるから摂取していたのかは、いまの私には判断できません。
わたしは生きるのにお酒を必要としていた。あるいはなんらかの神経をなだめてくれるものを。気分を大きくしてくれるものを。お酒はおいしいと同時に、生きる方法だった。
『安全に狂う方法』 赤坂真理
OPさんの返信を読みながら、浴びるように飲んでいたころのことを思い出していました。ある時は、退社した足で駆け込んだコンビニでよく冷えた酒(350㎖)を買い、バスを降りた先のたった数百m程度の道で一本飲み干してから自宅の玄関を開けていたんです(もちろん、帰宅してからも飲みます、寝るまでずっと)。今はどうしても車移動が多いから、自然と遠のいた説も有力ですが、まあ、私の酒エピソードはいいんです。
とっ散らかっているだなんて、とんでもない。色んなところに思考の視座があって、それが、それこそ夜天に輝く星のようにそれぞれに瞬いていて(瞬くように見えるのは、地上の風とか塵とかが由来だそうだけど、星がちらちら見えるのを“瞬く”との表現は、あまりにも誌的ですよね)、とても面白く読みました。
身の回りのものが全て資本主義に集約されてしまう苦悩は、自分にも身に覚えがあって大変共感しました。特に“それ”は「楽しいこと」の近くにありますよね。まあ、だからこそ貨幣に変換しやすいのだろう、と仕組みの巧妙さに舌を巻くと同時に、だからこそ、その「楽しさ」を享受する側が、楽しみと“それ”とを明確に切り離しづらい、もどかしさがある。なんというか、もう少し純粋な(というのもおかしいけど。別に資本主義を邪とするのもちがうから)楽しみを持っていたい、その仕組みの中に取り込まれないでいたい、という気持ちはあります。
加速する資本主義への抵抗のひとつとして、ボイコット(不買運動)がありますよね。私はSNSを通じてこうした手段があると知り、可能な限り実行しています。が、正直なところ、完全に実行できないことの方が多いです。というのも、私が今住んでいるところは、所謂“地方都市”からさらに離れた山間部で、半径2キロ圏内にコンビニ以外の飲食・生活用品の商店はありません。正直なところ、近隣地域を見渡せばそれでも「コンビニ数軒あるだけマシ」とも言えますが、コンビニだけで生活はできないのが現状です。最低限必要な日用品の買い物には、車で片道一時間半程度かけて市街地へ行くことになります。ただ、その市街地も年々縮小していて、ショッピングモールとスーパー、薬局はあるけど、大型書店は一店舗。映画館も一つだけ。衣料品店も、所謂ファストファッション系が目立ちます。とまあ、ここまで地方都市の現状を連ねましたが、私はいま好きこのんでここに暮らしているので、実はこの点においてそんなに不満はないのだ、ということをここで挟んでおきます。主題は地方都市の衰退ではなく(関係はあるけど)、地方都市における不買運動(及び社会運動)の実行の難しさ、にあるからです。
本題に戻ります。こうした右肩下がりの市街地には、資本力のあるチェーン店が残存しやすい。もちろん個人店で頑張っているところもありますが、残念ながら息長く残れないのも実状です。そうなると、どうか。ちくしょう、不買運動対象の店ばかりではないか。大体が20時には店を閉める街で、22時過ぎに用事を終えて、どうにかコンビニ以外の温かい食事をたべたくて、仕方なくあの有名なハンバーガーチェーン店のドライブスルーに駆けこんだこともあります。朝早くに発たなければならなくて、どうしてもカフェインを摂取しておきたくて、あの有名なコーヒーチェーン店に行ったこともある。そもそも、どうしてもあの味が恋しい、という発作に苛まれて、とあるチェーン店の軒をくぐったこともあります。
自動車も、通行可能な平らな道路も、そもそも住むための部屋も、上下水道電気ガスのインフラも、この現代においては最早無くては生きてはいけない。それを獲得するために、もしくは維持するために、莫大な資源を要して消費していて、反面、加速して暴走する様も見ている。資本主義、およびそれに伴う産業によって生かされてもいるのに、それによって緩慢に首を絞め続けられているんですよね。
そして、そうした行動に伴う実態は、東京ならびに大型都市と、地方都市、そしてさらなる僻地では、全然おもむきが違うなあ、と実感しています。これは不買運動だけじゃなくて、あらゆる権利回復や、獲得や、抵抗に伴う社会運動すべてに対して思います。ぜーんぜん、並列には、語れない。その隔たりは、最早、翻訳に近いと思うこともあります。それでも、語れないことを念頭に、語らないといけない、とも思うんですが、これもまた、私のひとつの諦められない・捨てられないものだなあ、とも思う。
持つことへの情熱は終わることのない階級闘争をもたらすにちがいない。(中略)だれもがより多く持つことを望む限り、階級の形成があるにちがいないし、階級闘争があるにちがいない。そして地球全体として見れば国際間の戦争があるにちがいない。貪欲と平和は互いに相容れないのである。
『生きるということ』 エーリッヒ・フロム
ちょっと話が果てしなくなってきたので、足元に戻します。
そう、仰る通り、私は「捨てることができない」んです。物質的に捨てること・断捨離も苦手ですが、思考を捨てることはもっと難しい。良く言えば「しぶとい」(果たしてこれも良いのか?)、悪く言えば「執着がある」。本当に! そのOPさんの執着OFFスイッチが! 私もすごくほしい。OPさんがそのスイッチを獲得するまでに、生来的にせよ後天的にせよ、色んなことがあったんだと思うんですけど、それについては、純粋に「ウワーめちゃくちゃいいなー」って一人で部屋で暴れていました。
私が“捨てられない”のは、半分ほど意識的なものですが、もう半分の無意識の領域では、ただ単に“忘れられない”だけなんだと最近気づいたところです。テストや仕事など、有益な記憶作業は苦手なのに、どうしてこんな、毒にも薬にもならない場面や一言、物事ばかりに記憶野を使ってしまうのか、自分でも疑問だし、遺憾です。だって、それによって、苦しむことだって多いのに。
だから、もらっていた質問にここで答えると、私の苦手なこと・嫌いなことの一つに「忘れること」があります。ただし、その記憶の選定は無規則及び無作為とする、との注釈が必要です。全然、いいもんじゃない。
OPさんが整理整頓が苦手、というのは意外でした。SNSで垣間見えるインテリアは素敵だし、食器や小物もおしゃれだから、勝手に「得意そう!」というイメージを抱いていたんですね。やっぱり、聞いてみないとわからないものだから、聞いてよかった。若干強引だったかもだけど、やっぱり言葉を交わしていくことって、大事なことなんだね(感想文?)。
私は前述の通り「捨てること」が苦手なので、基本的に物持ちです。でも、片づけは結構得意なんですね。といっても、物のグルーピングをして、同じ場所・箱・エリア、になんとなく突っこんでいるだけです。決してミニマリストにはなれないけど、それなりに収まっていると思う。ああ、そこに「整っているかどうか」とか「美醜」の判断をしていないのだった。大切なのは、収まるかどうか。本棚からはみ出た本は、文書保存箱に収めて、積んで、部屋の隅に置いてあるだけです。布でも被せとけば、それっぽく見えるし。うーん、しかし、それは整理整頓できていると言えるのだろうか? 審議入りです。
あと、私は「行動の切り替え」が苦手です。いきなり他のことをしようとしても、ギアチェンジにすごく時間がかかるというか。最近は行動そのものに慣れてきて(人間の初心者?)、「家事」とか「今日の作業」とか大きな括りで捉えた上で、その中で小さく切り替えをする分には可能、ということがわかってきました。でもどれだけ俯瞰で大きく捉えてもどうしても切り替えが必要な、「就寝と起床」だけは未だに苦手です。低血圧なのか、とか、睡眠環境が良くないのか、とか色々試行錯誤したこともあったけど、最近は諦めて「ワシは切り替えが苦手、やむなし、南無三」と開き直ることにしました。
あとは単純に、「確定申告」とか大大大苦手で大大大嫌いです。耐え難い。苦行です。憎しみさえ覚える。まあ、やるけど……仕方ないから……。
ああ、あと、「植物を育てること」、苦手すぎる。鉢植えでも、水耕栽培でも、切り花でも、なんか……なんか、だめなんですよね……。いま、部屋にコウモリランの鉢植えを一応置いてあるんですが、それも……存命ではあるが元気はなさそうです。色々手をかけているんですが、かければかけるほど、とことん苦手だな、と思っているところです。なんでなんだろう。栽培方法を調べたり、環境を整えたり、水やりもしているのに、こう、うーん……だめです……。こればっかりは……本当に……。「野の花はやはり野に置け蓮華草」にひどく共感します。これ、ありのままを愛せよ、みたいな意味でよく使われていると思うんですが、個人的には、「摘んだり植え替えして枯らすより、野で健やかに咲いて枯れた方がいい、罪悪感もないし」と超飛躍個人集約理解をしています。
数多、植物を枯らしたり腐らせてきて、その度に、自分は生物を手元で育てられない、そんな資格はない、と突きつけられているようで、毎回それなりのショックを受けています。観葉植物なり、花壇なり、上手な方は本当にお上手じゃないですか。お庭とか、お部屋の窓際とか、きれいに植物で整えていらっしゃるのを見ると、感動すると同時に、自分の中の後ろめたさが刺激されます。そういう方のお話を聞いていると、植物に手をかけるのが好きなんだろうな、と思うけれど(なにぶん、うちの父親がこのタイプです。本当に楽しそうに、土いじりしてるんですよね)、得意だから好きなのか、苦手だから嫌いなのか、わからないけど、才能の一言で片づけるのも違う気がするけど、とにかく私は植物を育てることができません。うん。
ソフトパワーに対するものは、「ハードパワー」である。これは、自国の軍事力や経済力を対外的に示すことになり、相手との間で摩擦が起きないようにすることである。いわば威圧的な交渉である。また、国内に向けても同様に行われることがある。
現代社会において、大国は強大なハードパワーを有し、周辺国、小国や少数民族への威嚇が現実化している。さらに、実際にハードパワーを行使し、今現在においても地球上で国際的な紛争や分断化が生じていることは大変悲しいことである。青木は著書『多文化世界』のなかで「異文化理解を通して多文化世界を擁護し、文化の力を見つめ直すことを通したその実現を目指し、人間がともに生きていくうえでの共通項を探ることこそ、二十一世紀の世界の平和と繁栄の条件ではないでしょうか」とも述べている。逆にいえば、大国が異文化を理解しないならば、多文化の存在を認識できなくなり、結局は自文化(自国)の衰退を招くことになるのではないか。
また、青木は別の著書『異文化理解』において、「異文化を理解することの意義は、ひとつには自分たちにないものをその中に発見して、それが自文化ではどうしてなくなったんだろうとあらためて考えさせずにはおかないところにもあるように思います。これは異文化が単にもの珍しい存在というだけでなく、自文化を見直す機会としてもあるということです」と述べている。まさに、現代の私たちが、クマ送り儀礼の文化を多方面から考えて深く知るということは、異文化を理解し、自文化の存在の意義を考えることなのだ生物多様性の重要性と同じように、社会も画一化に向かうのではなく、多様性を維持・重視することに意義がある。
これまで述べてきたヒグマ文化には、集団を結束させる、他集団の文化を認めその間の絆を強めるという魅惑的な力がある。もちろん、ヒグマ文化に限らず、人類が発展させてきた文化は、これからの世界を生きていくうえで人間社会の力となるだろう。
『ヒトとヒグマ』 増田隆一
私もわたしで、色んなところに星を置くような文章を書いてしまった。
こちとら本来涼しいはずの地域ですが、連日真夏日で参っています。でも、夏至もすぎて、上半期も終わったら、もう冬だから。気が早すぎるだろ、と思うけど、もう3ヵ月したら冬タイヤにしないといけないんですね。それまでなんとか生き抜いて、冬もまた生き抜いていこうと思います。
OPさんのお住まいの地域でも、熱中症に気をつけて。本当に。夏野菜たくさん食べて、元気にやっていきましょうね。
なんだかこのやり取りが終わるみたいな納め方をしてしまったけど、まだ終わらないよ(ね?)。
そういえば、今年の七夕は令和七年七月七日なんですよね。OPさんは一発当ててみたいことってありますか? どんな質問? 全然別のことでもOKです。私はギャンブルに疎くて、かつドドドせっかちで適性がないので、やらないことにしています。
2025年7月4日 花札はギリできる ばく