昨日だったか、上司が雑談で「ChatGPTって便利だね。すぐに文章作れちゃうんだもん」と言っていた。
私はChatGPTを使ったことはないから詳しくないが、生成AIがインターネット上のあらゆる情報を学習し、それをもとになんの違和感もない文章を書き上げるのだということくらいは知っている。
さらにそれによって、これまで文章を書くために割いていた時間を短縮し仕事の効率化を図ることができるので、すでに企業のみならず公的機関でも導入がすすむ技術だと聞く。
私としてはこれまであまり興味を感じてこなかったが、上司の話を聞いて「へえ、やっぱり便利だって思う人もいるんだな」と思った。
思えば、小さい頃から文章を書くのが好きだった。
小学校低学年の頃だろうか。週末になると、ノート1ページ分だかの作文を書いてくるようにという宿題があったが、これは私の中でかなり好きな宿題だった。
書くのはどれも日常の些細なことばかり。けれど私は毎回右手が鉛筆の粉で黒くなるまで、宿題で求められる以上の分量を喜んで書いた。先生からコメントが返ってくるのも嬉しく、時には挿絵なども書きこんだ。
小学校高学年になると原稿用紙を買ってきて、そこに自分が書いた空想を綴っていくようになった。言葉が織りなすリズムを味わい、ぴたりとした表現を探しあてた時の喜びを知り、空想が自分の手によって形になっていくことに夢中になった。
好きこそ物の上手なれの結果なのか、いくつか作文の賞をもらった記憶もある。
そんな私も大人になるにつれ文章を書く機会は減っていったが、こうして今しずかなインターネットに日記を書いているくらいには今も好きだといえるだろう。
だが世の中、そんなに文章を書くのが好きな人ばかりではない。
特に仕事で書かねばならない文章などはある程度型があるものなので、それをいちいち考えパソコンに打ち込むのも面倒くさい。その気持ちはなんとなくわかるし、文章作成はChatGPTにまかせてその時間を他の業務に使いたいというのも納得できるところはある。
とはいえ、そこまでAIにまかせてしまっていいのだろうか。
まっさらなところから文章を書くというのは、案外頭を使う。
言い回しを考えたり、文章の構成を練ったり、「相手にこの書き方や表現で伝わるだろうか」と何度か読み返し、前後の文章を入れ替えたりする。時には、せっかく書いた文章を心を鬼にして削除する作業も必要だ。
人によってはこれを無駄な時間だと感じるのかもしれないが、「自分の頭を使って考える」「文章を読む相手の立場になって考える」いい機会でもあると思う。
その機会を自分からあっさりと手放し、効率的だからといってAIに任せてしまってもいいのだろうか。その効率化で時間を手に入れることができても、何か別のものを失ってはいないだろうか。
確かにChatGPTが作り出す文章はわかりやすく、かつ整然として美しいのかもしれないが、それでも私は人間の書いた文章を読みたいと思うし、書きたいと思う。
もしいつか職場にChatGPTが導入されたとしても、私は進んで使うことはしないだろう。
文章を書くという非効率的な行為を、一人ほそぼそとしていくと思う。