忘れられない雪の日がある。
中学一年生の三月。当時私は愛知県の田舎町で、吹奏楽部のクラリネットを担当していた。
私の学校の吹奏楽部はそれなりに強く、西関東大会の常連校だった。一年生ながらA部門のメンバーに入れてもらうことができ、その日はアンサンブルコンテスト(クラリネット8重奏)の県大会だった。
私は、ひと月後の四月からは埼玉県の中学に転校することが決まっていた。
もしここで西関東大会に進むことが出来ても、その大会に私は出ることが出来ない。それが分かっていながら私は、転校の事実を先輩や同学年の友人に伝えることなくその日を迎えた。
8重奏のうち一人が抜けてしまえば、後で部内に大変な迷惑がかかることは、当時の私も分かっていた。けれど、最後までこのメンバーで揺らぐことなく同じ方向を見て頑張りたいという私の気持ちと、周りへの精神的な影響を考えて、顧問の先生が大会が終わるまでは伏せておこうと決めたのだ。
結果は、県大会敗退。競合校に一歩及ばず、西関へ進むことは出来なかった。悔し涙が頬を冷やす中、ちょうどその頃に雪が降り出した。会館の外に集められ、私が転校することが部員に告げられる。驚きと悔しさでさらにみんなぐちゃぐちゃになるほど泣いて、そこからは時間経過の記憶が曖昧だ。
あの場所で泣いて泣いて、泣きすぎたからなのか、その次の記憶は帰りの電車の中の記憶まで飛んでいる。
同じクラリネット8重奏の演目に出ていたA美は、クラスも部活も同じ親友だった。中学生らしく何をするにも一緒で、何でもかんでもお揃いにして、ついには当時、好きだった男の子まで同じだった。
田舎の中学一年生の恋愛なんて、たかが知れている。私もA美もバスケ部のTくんのことが好きで、だけどお互い見ているだけで十分だった。
記憶の中の帰り道は、なぜだか私たち二人しかいなかった。元々極端に使用する人が少ない電車の中は、その日もやっぱり人が居ない。
私たちは疲れと、悲しさと悔しさでいっぱいの中、車窓から雪を眺めながら話をした。
そこでA美は、膝に乗せた自分のクラリネットのケースを撫でながら言った。
「四月から、どうしたらいいかわからん」
「教室にも部活にも他に友達はおるけど、“私”がいないことが想像できん」
「Tのことはどうするん」
本当は私の方が不安でいっぱいだった。Tのことを好きでい続けられるわけが無いことも分かっていた。A美もきっと、これから始まる学校生活が全く想像できないとてつもない不安の中で、私にこう続ける。
「“私”がおらんなら、A美もTのこと諦める」
「“私”と一緒に恋しとるのが楽しかっただで」
当時、私はまだ中学一年生だったけれど、あの時A美としていた恋は私にとってちゃんと恋だった。
Tの居る7組との合同授業が楽しみで仕方がなくて、毎月の全校朝会で見かけるのを待ち望んでいた。暑い日も寒い日も、わざわざ体育館へ続く渡り廊下で私たちがクラリネットの練習をしていたのは、少しでも好きな人の姿を見たかったからだ。誰がなんと言おうとあれは恋だったと私は今でも胸を張って言える。
だけど、私が1年間楽しくて仕方がなかったのは、Tに恋することじゃなく、A美と一緒にする恋だったのかもしれない。
A美と一緒にした恋は、全てが初めてのことばかりだった。誰かと同じ人を好きになって、喧嘩するわけでも取り合うわけでもなく、ただ毎日恋バナして、夏には勇気を出して二人一緒にお祭りに誘った。文化祭のフォークダンスでは順番にTに声をかけて、二人とも踊って貰えたのは今でも思い出に残っている。
本当なら一人でするはずの初恋を、私たちは二人で経験した。今になって、 それがほんの少しだけ特別な経験だったんじゃないかと思える。
愛知県は意外と雪が降る。私たちの住む地域は特に、数年に一度交通機関が機能しないほど雪が降る地域で、その年のその日がそうだった。
乗っていた電車は随分と減速して走行していて、なかなか最寄り駅に着かない。
乗り慣れている訳でもない電車と、見慣れない雪と、色々な不安の中で親友にそう言われた13歳の私の心はもうぐちゃぐちゃだった。
「A美は諦めたらいかんよ」
多分そう言ったはずだけど、その後二人がどうなったのかは、埼玉県まで伝わってくることは無かった。
あれからもう17年経ってしまった。埼玉県はあまり雪が降らない。降っても積もる前には黒い泥水へと変わってしまう。
だけどつい先日、ちょっとびっくりするぐらいの雪が降った。寒すぎて泣きそうになりながら、タイヤの跡をなぞるように歩いて帰る私の横を減速した電車が走っていく。私の家は線路沿いで、そんな光景はいつも見慣れたものだったけれど、疲れて項垂れて座る人が電車の窓から何人か見えて、あの日の私たちに重なった。
A美は数年前に結婚したらしい。唯一繋がっていたInstagramで連絡が来た時に教えてもらった新しい名字は、Tのものでは無かった。
それがなんだか残念で仕方がなかったのだから、やっぱりあれは恋じゃなかったのかもしれない。