二千百三十一年、午前四時三十八分十二秒。海に一体のロボットが飛び込んだ。世界で初めて発生したロボットの自殺事件として長く語り継がれた事案だった。
前日。
いつものようにラジオ体操から1日が始まった。
彼はロボット支援員A。社会生活を行うことが著しく難しい人々の日常動作をを介護・解除することが仕事の介助ロボットである。その用途のために四十年前に製造された。現在の精神年齢は人間に例えると三十歳ほどで、見た目はほぼ人間と同じで見わけもつかない。だが一般生活用のボディはきちんと硬くて重い合金でできている正真正銘のロボットだった。
職場は授産施設で、主に軽い身体・精神・知的障害を持つ人々の生活のサポート業務を人間の同僚たちに混じって共に行っている。この時代、人間とロボットが(特に福祉施設の)同じ職場で働くことは全く珍しい事ではなかった。
その日は入所している女性、Bの期間振り返りを個室ですることになっていた。これは毎月役場への提出が義務付けられているセーフティー業務で、人間とロボットの生活を安定させすり合わせるために福祉施設以外の一般の会社でも上司と第三者を配置して役場への報告が常化されている通常業務であった。プライバシーのためAはBを個室に案内し、いつものように戸を閉めた。
「おはよう、Bさん」
「……おはようございます」
「じゃあ、期間振り返りやっていきましょうか」
Aは気さくに笑いかけるが、Bはビクと怯えてしまう。Bは統合失調症の元患者で、最近施設に入所してきた。なぜかかなり支援員ロボットAに戸惑っているようだ。往来を歩くロボットも珍しくない世界でここまで自分に対して戸惑う人間は珍しいと思い、Aは慎重に関係性の構築をシミュレートしていた。
「どうですか、調子は」
気さくにAが話しかけてもBは不気味そうに、まるい目でまじまじと支援員ロボットAを見つめるばかりだ
「あんまりよくなさそうですね?」
それはそうだろうと支援員ロボットAもわかっていた。Bは今現在二十歳だが四年前からずっと精神病院に入院しており、退院して外に出て来たばかり。現在は専門のサポートが入る精神病院運営の集団生活寮に住んでいる。あんな事件が無ければ今頃は大学生だった。そう、あんなことがなければ。
「……おとうさんのこと……」
「……また思い出してしまいましたか?」
「……そろそろ、終わりにしようと思って……もういいかなって……」
BはじっとAを見つめている。どうして彼女がいつもそんな目で珍しくもない一般普及型のロボットである自分を見るのかAには理解できなかった。
「何かずっと悩んでいることがあるんですね。話してもらっていいですよ。苦しいならここで吐き出してしまってください」
「えと……お父さんが、殺されたときに……お父さんはずっと仕事が見つからなくて……それで……」
支援員ロボットAは、彼女が何度もこの話の件を繰り返していることに気付いていた。仕方がないことだった。彼女は酷く傷ついたのだから。
ロボット工学・AIのシンギュラリティが五十年ほど前にあり、人間の労働者たちの仕事の多くがロボットにとって代わられた。歴史用語でロボット起因就職氷河期という、長い長い人間の苦難の歴史の始まりだった。人間は仕事を失い、経営者以外の人間労働者は多くの人々が路頭に迷った。その状態は何年も続いた。そして当然ながらというべきか多くの人間の生活は破綻していった。特に期間労働者は多くの割りを食った。
Bの父は職人だったらしい。ロボットの顔を作る専門の職人だったそうだ。だがある日大きな怪我をしてしまい、職を辞し、期間労働者になった。だが皮肉にもそのロボット起因の就職氷河期のせいで職はなく、家庭は荒れ、彼女の母親は彼女を置いて逃げ出た。そして彼女の父親は娘に手を上げ始めた。そして狂ったあげく彼女の父は自ら命を絶った。
「私……」
「無理はしないでいいんですよ」
Bがその先の話をすることは、負担になるだろう。どちらにせよ、いつもその先のことになると長い沈黙が落ちてしまい話が進まないのだ。支援員ロボットAは軌道を修正しようと話を戻そうとした。
だが、今日は違った。
「でも……助けてくれた人がいたから私は生きてる」
「え……?」
ロボット支援員Aは困惑した。助けてくれた人、なんていう明るいワードが彼女の口から出たことに驚いたのだ。驚くべきことに彼女はさらに言葉を続ける
「おまわりさんたちには言わなかった……動揺して……言えなかった……けど、A支援員さんがお父さんから私を助けてくれたんですよね」
「なんのことですか……? ……おまわりさんには言えなかった? お父さんが自死された時のことですよね? 警察に話していないことがあるのですか」
「そうじゃないですよ」
「えと……」
「私のこと覚えてないんですか」
動揺する支援員ロボットAの前で、Bは微笑んだ
「お父さんを殺してくれてありがとう」
そのとき、Aに搭載されたAIは真っ先に自身のメモリファイルを検索した。だが膨大なメモリのなかを探してもどこにもそんなデータはない。
「……どういうことですか?」
「トラッシュボックスから削除したデータは復元した?」
Aはもし自分がモニタとカーソルでメモリを検索していたらば、それはきっと震えていただろうと他人事のように思った、トラッシュボックスから復元した膨大なデータ中に謎のダンプファイルがある。あえて破壊したかのような壊れ方をしている。
まさか……?
Aはそんなことがあるはずがないと思った。彼はそっとそのファイルを復元し、メモリを展開した。
貧民層向けのアパート、五階の非常階段の中、真っ赤な夕焼け。
たまたまそれが見える位置に自分が居あわせたらしかった。
男と少女がもみ合っており、たまたま通りがかったAに、少女が助けを求めてきて、それをまた男が殴り倒す。
慌てて現場までの非常階段を登ろうと走っていく自分のメモリーが再生される。少女が踊り場でボロボロの姿で男に暴力を振るわれおり、助けを求める声がする。止めなくては、止めて少女を救出し、警察に連絡しなくては。ロボットだからこそ、Aは使命感に突き動かされていた。ロボットは人間を守らなくてはいけないから、だから
「おまえのせいで、おまえのせいでなあッ!」
男は少女の父親のようだったが、泥酔しているようだった。このままでは本気で少女を殺しかねい、Aは急いで急いでアパートの階段を駆け上がっていって、ついに少女の父親を静止して、父親と少女の間に立ちふさがった
「やめてください! 警察を呼びます!」
彼女の父はふと立ち止まり、Aがロボットだと理解したらしかった。それは技術職についていた彼だからの芸当だろう。そして無言で後ずさり、おもむろに低いアパートの柵から階下へ飛び降りた。
なぜ、Bの父親がそうしたのか、本当のことはもう誰にもわからない。
Aは慌てて階下に走っていったが、もう命は助からないとその人工知能は理解した。少女の父親は体を強く打って死亡していた。
気づくと場面が切り替わっていた。記録されていなかったのかもしれない。いや、記録したくなかったのかもしれない。何もわからない。Aは雨の中を歩いていた。その後、現場から遠く離れた場所にある家に帰り、ニュースを検索していた。ひたすら検索する。だが貧民街での自殺はありふれているのか全く出てこない。あの場所の記憶をもう一度確かめるが、監視カメラもないアパートであったらしい。だが、今の今に至るまで警察が来ない。なぜだろう。
当時のAの混乱と困惑と妙に冷静な判断が、今の彼の中に流れ込んでくる。もしこんな事件があったと発覚すればAという機体は処分されるだろう。メモリも初期化されるだろう。ロボットに死はあるのか? 少女の言い分はどう受け取られる? 自分の正当性はどうなる? 世間の目は?
そこまで思考して、Aは記録の一部分をトラッシュボックスに封印した。そしてやがて『逃亡生活』に疲れ果てたAはそれすらも……。
「どうして4年も黙っていた……?」
「ちゃんと話したけど警察の人は信じてくれなかった……ロボットが人を殺すはずがないって……娘を虐待していた所にロボットが助けに来て、その『顔』を作っていた職人のお父さんが、ショックを受けて自殺したなんて、そんなのは『作り話』だって」
職人だった父親 父からの虐待 父の自殺 統合失調症の診察 入院……
「お父さんを殺してくれてありがとう」
「……」
「さようなら……」
その後の歴史書にはこう記されている。
Aはその後行方不明になった。職場から出たAの方へ同僚からの着信があったが、Aからはメールでちょっと急にメンテナンスで……と返され、同僚たちは納得して詮索しなかった。この間、位置情報に繋がる情報は全てシャットアウトされていたという。
その後Aはレンタカーを借りていたことが調べられた。最後の通信は彼が精神年齢を測定された大学の研究所への空メールである。これにより最後の位置情報が特定された。Aは埠頭に行き車を降り、自ら入水した。
機体の回収は海溝部があまりにも深いため、そして積み重なったヘドロと堆積した泥により叶わなかった。彼に長時間の浸水に耐えられるほどの防水機能は搭載されていなかった。
クラウド上にアップロードされたデータには何の犯罪の痕跡もなく他殺の関係性の線も薄いとさた。ロボットの自殺事件は迷宮入りし、Aのクラウド記憶を復元するべきか否かなど世間を大きくざわつかせたが、やがて誰もAについて触れなくなった。事件は沈静化しやがて記録だけが残ったという。
了