私は、つい一年ほど前ぐらいまで非常に自己肯定感が低かった。
常に親に叱られながら育ったわけでもない。親から褒められずに育ったわけでもない。
でも、子どもの頃から見捨てられ不安があったのは記憶にある。
頻繁に言われたわけではないと思うが、まだ大人になる前、私が大きな過ちを犯した時に「あなたは信用を失った」と言われたことがある。見捨てられたと感じて目の前が真っ暗だった。一回だけでは無い。
それは高校生とか、そのあたりの出来事だったと思う。
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父方の祖母と私の母親は非常に仲が悪かった。大人になったらわかったけれど、あまりにも酷い嫁いびり。母親はよく耐えていたと思う。
祖母は、孫の私達を自分の味方にしたくてたまらなかった。だから、事ある毎に「そんなことをしたらお母さんに怒られるよ!」と私たちに言い続けていた。母親を悪く言う時のあの嬉々とした祖母の顔は忘れられない。
本当に怒られたのは何回あったのか。母親は心底嫌な気分だっただろう。怒るつもりもないのにそんなことを言われ、純粋な私達は祖母の言葉を信じてしまう。
私にはそんな歪んだ背景の生い立ちがあったから、余計に私の見捨てられ不安は育ったのではないかと思う。
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こんなことを言ったら嫌われてしまうのではないか。変な奴だと思われるのではないか。
そんな思考がいつも頭にあった。
嬉しいと思ったことや楽しいと思ったことも顔に出せなかった。
小学一年生だったか二年生だったか、遊園地の輪投げで父親がウサギのぬいぐるみを取ってくれた。「とってあげる」と言って本当に取ってくれて名前もつけてくれた。すごく驚いたしすごく嬉しかったのに、その気持ちを顔に出すことは良くないことだと思って笑えなかったのを覚えている。
でも「それから毎日ずっと一緒にそのぬいぐるみと居るから、相当嬉しかったんだろうなとは思った」と、父も母も笑いながら度々話していた。
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自己肯定感は自ら生み出すことはできない。
『あなたが泣いても怒ってもふてくされても暴れても大丈夫。見捨てたりなんかしないから安心して』というノンバーバルな愛情にたくさんたくさん浸かって、もう充分浸かったなとなると溢れてくるものなのである。
そういう経験が私には無かった。無いまま40年ほど生きてきた。
それが突然、充分すぎるシャワーを浴びることとなった。
たくさんのシャワーを浴びせてくれる人に対しても不安が消えることが無く、泣くことも多かった。『こんなに泣くぐらいなら離れた方がいいんだ。こんなことをしたら嫌われるだろう。怒るかもしれない。それならそれでもうさよならだ』と思いながらとった行動も、ニコニコ顔で逆に歓迎されて、私はキョトンとしてしまった。
そこからの私は自己肯定感のかたまりに変貌した。
嬉しい顔も楽しい顔も愚痴話も、自分の感じていることや思っていることを怯えずに外に出していいんだと思えるようになった。
シャワー浴びせ人にも、以前より表情が素敵になったと、また更なるシャワーを浴びせられた。
私のことを、近すぎない距離で五年ほどそっと見守ってくれている師匠も、先日、私の変わりぶりに驚いていた。そんなに変わるもんなんだなぁ、と。
でも師匠よりも誰よりも一番驚いているのは、紛れもなく私自身なのである。