排他的な宣教って意味ある?

eruno
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って最近超思ってる

いや、多くない?

うちらの真理は「イエス様を自分の救い主だと信じて受け入れること」だけで救われるという超〜〜〜イージーかつROI爆高真理!!なのに

信者が信者に対して「〇〇だからあなたは救われてない」って言い過ぎ問題

誰が決めんねんそれ笑

誰が、あなたがそれを決めていいって言ったの笑

気をつけなはれや!

というのを、自分にも言い聞かせている

というのも先日、母教会で「終末について」婦人会で牧師がメッセージをするという会か持たれたので、録画してもらって私も参加した

母教会はディスペンセーション主義で、わたしは組織神学クラスを受けていたのでそのことを知っていたけど、おそらく礼拝中にはあまりそれについては明確に触れていなかったので、教会員もふんわりとしか理解されてない印象だった

私の予想だけど意図的に牧師たちがそういうふうになさっていた理由のひとつとしては、タイトルにあるようにディスペンセーションを教えることで信徒が「排他的になる」ことを恐れていたのもあるように感じた

実際、この会のなかで牧師はいつも通りの大変穏やかで優しい口調でそのように話された

「ディスペンセーションを確信する人は、なぜか、そうではない立場の人に対して非常に排他的になる傾向があります…」

もう、めちゃくちゃ思い当たる節がありすぎて、これ私のことだwwwwって思った

たぶんそうなる原因のひとつに「携挙で本物のクリスチャンが選別される」っていう潜在意識があるってのがありそう

裁くつもりはないのに、分けてるんだよね。そんな権威は私にはないのに!

まじで気をつけた方がいいと思った

それから、「ひとに福音を伝える、伝え方」を考えるようになった

たとえば、

「救われるためにはキリストを受け入れなければならない」「私はキリストを受け入れてるから救われているけど、あなたはまだ救われていない」

たしかに本質的にはそうだけど、こういうマインドが宣教の前提にあるならば、あまりにも「クリスチャン優位」であり、鼻持ちならない言い分でもある

イエス様って、私たちにそんなふうに教えたっけ?

誰でもイエス様の門から入らないと救われないけど、私たちが犯してきたどんな罪でも許してくださる超絶スーパーミラクルウルトラ優しく柔和で寛容なお方だったはずよ、イエス様って

許してもらうために何をすればいいの?金?善行?人のために祈る?

いえいえ、それらはぜんぶイエス様が十字架の上で私の代わりにしてくださった

私はただそれを受け入れて信じる

イエス様が私の救い主であると信じる「だけ」!!

そのあとは聖霊が、もっと深くまで教えてくださるじゃん。求めれば求めた以上のことを、みことばを通して、ひとを通して、あらゆるものを通して主の臨在を教えてもらえる

(たとえば、イエス様が復活されたのは私たちが肉体的に死んだあとに栄光の体でよみがえることを顕しているとか)

その時はようわからんけど、あとから「うわ、これってこういう意味だったのか!」という気づきをたくさんくださる。ただなんとなく「いいなぁ〜」と思ってたみことばが、「いのちのみことば」になる瞬間。あぁ、みことばって本当にわたしたちが生きていくために必要なパンなんだ!となる瞬間

自分で聖書を開いたときや、クリスチャンの兄弟姉妹に教えてもらったときに、またひとつ神様の偉大さを知ることができて、そうすることでもっと神様を賛美したくなる

そうやって満たされて主を賛美するクリスチャンの姿をノンクリのひとは見ると思う

クリスチャンとはどういうものか?私たちの姿から、神の姿を類推するんだと思う

「キリストを信じてないあなたは救われてません」なんて言ったら「へえー、ずいぶんと差別的ですね!そんな差別主義な宗教、私は遠慮しときます✋多様性、最高!」ってなっちゃうでしょ、人間。

だから私たちはもっともっとイエス様をお手本にして生きていけたらいいねと思うわけです

こういう時イエス様ならどうしたかな?どういう言葉をかけてあげたかな?答えは自分の経験の中にはなくて、聖書の中にしかない

イエス様はいつも愛を持っておられたことを私はもっと知らないとな。

愛も持たずに他者に福音を伝えることを行ってしまったらそれは押し付けであり、ノンクリの人にしたら「だから宗教キライなんだよ」一直線だよね

ましてやクリスチャン同士が揉めてたら「ほらね、宗教は争いの原因でしょ」だよね

(『宗教』が争いの原因なのはそれはそう。創造主の神は、人間がやってる『宗教』が大嫌いだもんね※イザヤ書1章 私が伝えたいのは『宗教』ではなく『真理』だよ)

あと、少しだけ話が逸れるけど

路傍伝道も素晴らしいなと思うんよね。あれって100人が通り過ぎたら99人は「うわキモっ宗教草」て思うんだろうけど、ほんとうに心が飢え乾いている人が1人でもいたら主に出会えるキッカケになるんだと思うから

(かと言ってそれを「やらなければ救われない」救いの条件にしているグループは危ないけどね。救いの条件を聖書に書いてるもの以外に足してるからね)

実際、ノンクリの人が教会に初めて行ったキッカケはポストに入ってたクリスマス集会のチラシだった、とかよく聞くし

愛を持って行う伝道行為を主は絶対に喜んでくださるよね

だからさ〜クリスチャンはもっと支え合って祈りあって、苦難のときも倒れない姿を見てもらうことだと思うよ

排他的になる自分のマインドを神様に取り除いてもらって、

キリストの弟子として、そういう姿を見せていくことでイエス様の香りを放つことができたらいいなぁと思った今日この頃