無題

eskimo
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尊敬している人のひとりに、古賀洋吉さんという方がいる。職業で説明すると、起業家、経営者というくくりになるのだろうけれど、私には、ただただ”すごい人”だ。この方がうつ病について書いているブログ記事ががある。これを読んだ当初は、「たしかに自殺はよくないよなぁ。病気のせいで、そういう気持ちになっているだけなのだから」という感想をもった。

今は違う。

もう一人、尊敬している人で、森博嗣さん(以下、森先生)という方がいる。職業で説明すると、研究者、作家だったが、いまはどちらも”引退”されている。この方も、私にとっては、ただただ”偉大な人、すごい人”。

ちなみに、話が逸れるが、お二人に共通しているのは、自分の幸せを第一にされている一方、出来る範囲で社会をよりよくしようと思われていることだ。

さて、森先生は、熟考は必要だけれど、自殺も認めるべきだ、というお考えのようだ。

森先生の考えを受けて、自分の考えが変わったわけではないが、今の気持ちはこれに近い。生き続けることが辛くて、他にやりようがない場合であれば、苦しまず痛みも感じずに死ねる方法を提供できる社会の方が豊かではないか、と思い始めている。たとえ、それが病気のせいだったとしても、友達や家族はいたとしても、本心を打ち明けられる人、甘えられる人が一人もいなければ、その人にとっては、生はただただ辛い。また支える側にしても、24時間サポートすることは現実的に難しい。では、そういう人を強制的に入院させればいいじゃないか、というのも違うような気がする。

この領域に関して言うと、日本はまだまだ未熟だから、実現はかなり難しいと思う。でも議論は始めてもいいのではないか。

政治家は、友達が一人もいない人、友人はいるけれど孤独を抱えている人、毒親を持つこども、経済的な余裕がなく不安を抱える人、そんな人の気持ちが理解できるだろうか。お金が底をつき、体力も気力もなく、また精神的身体的なハンディキャップを抱える人が、将来に希望を持てないということを、リアルに想像できるだろうか。今の生活保護制度は、このような人々の受け皿として機能しているだろうか。

宇多田ヒカルはいった。世の中基本は弱肉強食。本当に、その通りだと思う。ある程度強くないと、家からでることもままならない。野生なら、強いものに喰われて、恐怖の中で、激しい痛みとともに死んで終わるのだろう。野生でないないのだから、安らかに死なせて欲しい。これはわがままなのだろうか。豊かとはなんだろうか。

私は、いま、心を許せる家族や友達がおり、経済的な余裕も多少はあり、楽しいと感じる趣味のようなものがあるから、積極的に死にたいとは思わない。でも、そろそろ終わりでもいいと思っている。年齢を重ね、身体的な老化を感じるし、また今の生活を維持するためにしなければならないことを考えると、長生きはしたくないと強く思う。近い将来、尊厳死が合法化されることを望んでいる。