この前見かけたポスト。
正直、チョコにめちゃくちゃ課金する人の意味がわからなかったんだけど、数年前にジャン=ポール・エヴァン食べたら美味し過ぎて唐揚げかと思ったんだよな
「美味しすぎて唐揚げ」。なかなかインパクトのある表現だと思う。
中には「だったら唐揚げ食べればいいじゃん」などという心無いレスもついているが、これは日本語が読めていない。
別に投稿者は高級チョコレートは唐揚げの味がするとも、どっちが美味しいか比較しようとかも思っておらず、ただ当人の中に「至上にして至高の美味しさの概念」として「唐揚げ」があり、ドラゴンボールのスカウターで測定したら値がオーバーフローして測定不能をたたき出し機械が煙を吹いて故障するくらいの美味しさの基準が「唐揚げ」であって、「それに比肩しうる」という表現なのだ。最上級の賛辞である。まあ唐揚げだが。
同じような表現としては古来から「醍醐味」というのがあり、つまりは「うますぎて醍醐の味する、超やべえ」である。表現としてはむしろ由緒正しい。
味に関する語彙や食に関する概念というのは意識して思考しない限り・・まあ興味もない限り増えないものである。ゆえに「何が食べたい?」「なんでもいい」という会話は、男女の性別を問わず、ある種普遍的に可燃性が高い。対象への・・・相手の存在と食領域の両方について・・・興味の深さと解像度がある程度一致していない限り、阿吽の呼吸は成立しない。お互いに理解しようとする意志が無い限りにおいて、永遠に不毛である。概念が浅く表現力が貧しい場合には、「単語として発話されたこと」は手がかりでしかない。コミュニケーションを成立させたいなら時間をかけて丁寧にヒアリングをかけるか、全員でそれなりに妥協するか、一番条件が面倒臭いやつが意思決定コストを負担するか、あたりが選択肢としては妥当なところだ。
ちなみに「肉ならなんでもいいです」「羊は?」「羊は臭いのでちょっと・・」は会話として実際にあった。偏食魔王め。ラムもマトンも肉だし馬刺しも肉だよ。超偏食の肉概念を一々全部確認するのが面倒だったので本人に店を決めさせた。一番条件がうるさいだけあって美味しかったです。
少々話はずれるが、「〇〇になったらいいとおもう!」と言うのは本当にそうなったらいいとは思っていない、というようなケースがある。いや、発話者は「自分がそう思っている」と思っているが、実際はまったく何も考えていないのとほぼ等しい。絵描きさんになればいいと思う、や、料理人になれるね、もしくは小説家になれるよ、あたりが該当する。「たいへん上手である」=「専門職」というのが最上級の表現なだけであって、実際にそうなったらどうなるとか、そこに至る過程のどうこうのについてはほぼ全く考慮されていない。ゆるゆるのふわふわだ。概念の解像度が低いからそういう表現しか出てこないだけなので、言ってる本人は悪気もなにもない。真に受けて独立起業してカフェとか手打ち蕎麦屋とか開業すると痛い目をみるやつである。
さて、味の描写、というか飯の描写の話としては中村颯希先生が「揚げ物とかの描写は本能的にぐっとくる」旨のポストを流しておられた。
ごはん小説を書いていて思ったけど、「冷たくさっぱりしている料理(冷奴とか)」を美味しそうに書くのはとても難しくて、逆に「温かくてガッツリしている料理(揚げ物とか)」の描写は本能的にグッとくる。 やっぱり食事って究極的には、熱を得るための行為なんだろうな。 恒温動物だもんね…
食事において「熱を得る」というのが重要な要素であるというのは非常に重要な視点であるように思われる。それについてはまたいずれ稿をあらためることもあるかもしれない。レーションや行動食において栄養以外に必要とされる要素、また、昨今市販されている完全食に欠けがちな視点である。「ビタミンとカロリーが揃ってたら食事」ではないのだ。
さて、昼飯を探してくるか。