出会うべくして、黎明
いつかお前もこうなる、お前の未来だよ、と物語に囁かれることが、あった。9歳の頃の、「車輪の下」のハンス・ギーベンラートであったり、14歳の頃の、「銀魂」の伊東鴨太郎であったりした。優等生の転落のにおいを、私は常に敏感に感じ取っていた。あるいはそれは自己成就の呪いとして深く内面化され、積み重なっているようにも思う。これはありふれた・それでも私だけの・自尊心の話です。
現代文の予習をしないといけなかったから、いつもよりすこし早起きをした。私は高校2年生、4月19日の朝だった。同じ部屋で寝ている母を起こさないようにもそもそと準備をして、机に向かった。そうして、読んだ。
読んでしまった。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。
開いて一行、たった一行、それなのに、ひんやりしたものが胸の奥に走るのを感じた。二行。よく親しんだ感覚だった。この人は私と同じ匂いがするという、かつてない予兆が。そしてそれは、正しかった……
人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。(中略)人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。
息が。できなかった。何を読んだのか、わからなかった。読む前の自分はどこにもいなかった。
書いてあるすべてがわかるのだ。どうしてこんなことがありえるかが、わからなかった。
一字一句、すべてが、私の言葉だった。血と肉と骨をもって押し出される李徴の声は、私の声そのものだった。
許してくれ、と、闇雲に喉を衝いて出そうな叫びを押し殺した。正視してこなかった私のすべてが白日のもと引き摺りだされ、裁きを待っていた。過去と、現在と、未来がここに。虎になる未来が。こんなことは耐えられない、耐えられない!
思わず教科書を放り出し、ふるえながら表紙を撫ぜた。今読んだものが信じられなかった。涙で視界が歪んだ。何もかもがおしまいだ、と思った。動揺を悟られていたらどうしよう、と振り向いた先の母は穏やかに眠っていて、ほっとすると同時に少し恨めしかった。涙を手の甲で拭い、私は机に向き直った。
(あなたたちに、あの人の何がわかる)
蒼白な顔で、私は同級生の発表に、あるいは教諭の説明と意見に、心の中で反駁し続けていた。てんでどれもが的外れだと思えてならなかったのだ。……現代文の先生(50代の女性教諭)は、李徴が妻子にとって大変どうしようもない夫/父親であることについて、個人的にとても憤慨していたものだ。それ自体はもっともだし、ほんとうなら自分の立場はこの、顔なき妻としてしか描かれない女性に置かれるものだろう、とも理解していた。けれどそういう道理で心を引き戻そうとしたところで、何の役にも立たなかった。李徴に足りなかったのは、などと綺麗な第三者の顔で意見を述べるクラスメイトにほとんど憎しみさえ覚えて、喉がずっと痞えていた。読んでいると涙が溢れてしまうから、毎回、戦場に赴くような心地で、山月記の授業を受けていた。授業が終わると仲の良かった子にさりげなく(今から思うと全くさりげなくはなかっただろうが……)山月記の感想を聞いていたものだ。
――いきなり虎が出てくるのはなんで、というので引っ掛かってしまう。
――李徴のことがよくわからない。
誰もわからない、ことに、私は優越感を覚えていた。誰よりもこの物語を理解しているのは自分だ、という自負と矜持があった。愚かしい振る舞いなのは百も承知で、そうでなければならないとさえ、思っていた。けれど、それに対する寂しさもあった。ほんとうに、己の心情の裡にあるものとして李徴がわからない、なんてことがあるだろうか。あれは、あの居た堪れなさは、誰しも持っているものではないのか。本当に、私だけが?
天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。
昼休みに弁当を咀嚼しながら、学校の階段を上りながら、電車に揺られながら、私は李徴のことを考え続ける。いいや分かっている、私は分かっているよ、と思う。たぶん人間だった頃は、『傷つき易い』なんて意地でも言わなかっただろう……繊細だと看做されることを恥じただろう。その意味であの人は、やはりずっと理解を拒んでいた……
(理解されないことは紛れもなくあの人の/私の矜持ではあるんだ……そんなふうに自分を見なせば、他のひとたちから自分を切り離せて、特別な一段上の何かみたいに思うことができるから。理解されるということは、理解してくる相手が同じ土俵に立っているということだ。凡百のひとに「理解される」寂しくなさに焦がれたところで、あの人は/私は、独りで特別になることをどうしようもなく求めてしまう、相手がどれだけ大事な友人だろうと、そうしてしまう。ああなってまで、ずっと)
それを愚かということはできなかった。私が決して逃れおおせないものなのに、李徴を責められるものか。何もかも、すべて。
ゆうほちゃんは変わっている、ふつうじゃない、と、小学校でも中学校でも高校でも、何故かずっと言われてきた。友人も、両親も、悪気なくそう口にした。私は私の自明をその都度選び取って生きてきただけだったのに、どうしてその自明が他者の平均値らしきものから逸脱する結果になっているのか、ついぞ分からなかった。このようにして彼我の一線を引かれることは、私にいつも、矛盾した感情をもたらした。片方は誇りと喜びだった。もとより”皆と同じ”になりたくなかったから、願ったり叶ったりだった。誰かに流されて生きたくはなかった。いつでも、私はただ己に忠実でいたかった。平凡な一生を送りたくない、と強く願っていた。特別な存在になりたかったし……なれる、と心から信じて疑わなかった。まあ少なくとも当時成績は良くて、学校の誰よりも本を読んでいた。小さな世界ではあったが、それゆえに、そこに確かに根を張って生きていられた。そして、誰よりも、作家に焦がれていた。上橋菜穂子先生のようになりたかった。理想と憧れのすべてが、そこにあったから。今も、あるのだ。
けれどもう片方に、虚しさがあった。どうして、ただ私が私であるだけのことが、このように生まれついて、ものを感じて考えることが、気付けば「みんなのわからないなにか」の枠に入っているのか。「へんじゃない」という私の言葉は、どうして受け入れられないのか。何に隔てられて、こうなっているのか。中学2年生のころ、初めて同級生から侮辱と嘲笑を受けながら、いつかこうなる日がくると知っていた、ような気がした。
ここでないどこかを望んだことはない。ここにいる自分を厭うたことはなく、引き受けているものすべてを愛していた。それでも、知らず知らずのうちに身の裡で捩れていくものを、止められはしなかった。
いつ気付いたのだろう、「ふつうじゃない」と、「特別である」こととは、違うのだと。「ふつう」でも、「特別」になれる子は、いるのだ。
私は怯えはじめた。もし、自分が「ふつうじゃない」のに「特別ではない」人間だったら。そんなのはあんまり惨めだと。それなら最初から、ふつうの、平凡な人間に生まれついて、それを厭わず甘んじて受け入れる魂であればよかったのに。だけれど、もう遅かった、特別を望む心ばかりが私の中で燃え上がって……火は消せなかった。「ふつうじゃない」自分に報いてやれる道を、私は、「作家になること」の中にずっと求めていたのだと、思う。
中学のころ、先ほども少し触れたが、私の望みを嘲り否定した生徒たちがいた。絶対に泣きたくなくて無理矢理笑みを浮かべると、余計に、骨が灼けるような惨めを感じるのだと知った。……たぶん私は……彼らに思い知らせたかったのだ、私はお前たちと違うと。物書きになれれば、それを証明できると、一瞬であれ、思ってしまった。あまりに汚い感情だ、と厭わしかった。くだらない私怨で、抱いてきた望みを汚したくなかった。物語は道具ではない。道具にしてはならない。それは冒涜だ。どうせ自分たちがやったことを忘れているような人間だろうに、これ以上彼らに私の貴重な感情を割きたくない。あんなものに傷付けられるほど私は脆弱ではない。振り払わなければいけないし、そうできるはずだ。けれど、その毒が知らず知らず浸蝕してきたら、どうなってしまうのだろう。
中学受験をして入った学校だった。望みのために頑張れば、頑張っただけ、報われるものだと、私はどこかで信じていた。それがどうだろう?こんなもののために努力してきたのかと思うと、馬鹿馬鹿しくなった。楽しいことはたくさんあった。より良くありたかったし、クラスのよい雰囲気作りのために心を砕いた、そのはずだ。そういう私を好ましく思ってくれた人もいた。けれど、思い浮かぶのは行き詰まっていた自分の姿ばかりになってしまう。
ある時、はっきりとわかったのは、私は同じくらい「できる」人間がいる環境より、自分より「できない」人間がいる環境のほうが遥かに成績が伸びる、ということだった。圧倒的な優位に立ち、それを保ち続けるのに喜びを見出すたちだった。もちろん純粋に学ぶことは好きだったのだが、そういう(見ようによっては相当に卑劣な)闘争こそが血を沸かせてきた、という支えが相当に大きかった。いちばんであるうちはいいのだ。だが一度零れ落ちたが最後、修復ができなかった。私の成績は頭打ちになり、課題をまともにやらなくなった。「車輪の下」を読み返して、最初に手に取ったときの予感を身をもって証明しようとしている自分を思い、乾いた笑いがもれた。望ましさが消え失せていく。零れ落ちていく。このままでは駄目だとわかっていた、でもどうすればいいのかわからなかった。幼いころに引き受けたものと思っていた衝動と暴力性が、いつか私の表層に立ち戻ってきた。そして人生で初めて、自分が二人に分裂してせめぎ合っているのを感じ始めた……めちゃめちゃに何かを殴って、蹴って、打ちのめしたい、私を認めさせ叩き潰すのだと殺伐とした欲を抱えている自分と、誰も何も傷付けたくない、そんなものから自由な魂をはじめから持っているはずだろうにと哀しみ恐れる、自分とが。しかし前者の私は後者の私の柔さをこそ守ろうとしたいのだろう、とも、どこかで感じていた。単に荒み歪みとして片付けられないものがそこにあるとわかっていたからこそ、私は進みあぐねていたのかもしれない。「こういう悩み」は中学生、この年頃の人間としてきっとありふれているのだろうに、くだらないことを、という理性もまたあったから、余計に気が滅入りもした。そうした諸々にかまけていたからなのだが、ほとんど他者を容れることもできなかったし、ずっと鬱々とした苛立ちと焦燥に駆られていた。周囲にどう思われてもいい、というのは自分の強さだと思っていたけれど、それは「自分の言動の結果として相手がどんな思いをしても構うものか」の裏返しでもあった。分かって欲しかったが、分かって欲しくなかった。私はどこかで皆を見下していた。そういう人々に分かられるほど単純な人間だと、思いたくなかった。この精神性でうまくいくはずもないのはお分かりだろう。それなりに取り繕って学校生活を送ってはいたけれど、綻びはもはやどうにもならなかった。担任から親に電話がかかってきたこともあったし、余程腹に据えかねたであろう友人(愚かにも、私は当時彼女を友人とは思っていなかった、酷い話だ)が、ハリネズミ、と私を評したそれの意味合いは正しかったと思う。悪循環だ。そういう中でいつか私は、自分が何かを成せると信じられなくなった。おくびにも出さなかったが、萎縮し、怠惰になり、後ろ手に諦めを探していた。それでも、私だけは私を信じてやらなければならないと強く強く思っていた。自己愛だろうとなんだろうと構わなかった。実現させるつもりがあるかも曖昧な己の言葉に、ただ祈るように、縋っていた。この表向きはけっして譲らなかったから、まあ、自尊心”は”高い人間に見えたかもしれない。そもそも他者にはどうでもいいことだったろうけれど……。その言葉は例えば○○高校に合格する、であったし、後には△△大学に合格する、でもあった。そしてまた、作家になる、と。
この頃なんとなく観ていたアニメが「銀魂」だった。私は日常ギャグパートよりシリアス長編パートの方が好みで、その長編のひとつに真選組動乱編があった(原作19巻・20巻、アニメでは101話~105話)。中3に上がるころの春休みに観たのだったか。………私をひどく狼狽させたのはここに登場する、伊東鴨太郎という人だ。彼は作中の警察組織・真選組の参謀だったのだが、反政府勢力と結託して局長の座を手に入れようとクーデターを計画する。しかし彼はその信義のない振る舞いゆえに、反政府勢力からは最初から見限られており、クーデター未遂の争乱の中で抹殺をはかられる。
「孤独を受け入れられず/孤独であることを人のせいにした/人から拒絶されるのを恐れ/自分から拒絶した/傷つくのを恐れ/孤独が好きな芝居をした/心に壁ができていく/そのくせ宙ぶらりんになった自己顕示欲だけが日増しに大きくなっていく/他者に認められたい/認められてもまだ満足できない/僕はもっとできる/僕はお前らとは違う/思い知らせてやる僕という存在を」
空知英秋『銀魂』19巻
全てが瓦解したのち、彼はそれまで蓋をしてきた彼自身の内面と対峙するのだ。……とても見ていられる気がしなかった。むごいことだと思った。この時、中学時代の自分が何に、どのように囚われていたのか、どんなふうに他者を蔑ろにしてきたか、初めて客観的に焦点を結んだのだと思う。私は彼のように(両親の愛を得られず/常に周囲に疎まれて友人を持つことがないという)つらい幼年期を送ったわけではないが、あるいはだからこそ、彼の心のありようそのものを、白刃で貫かれ目の前に突き出されるような心地で、目の当たりにしていたのだった。行くところまで行ってしまった彼の姿に、私は自分を重ねて、呻いた。
(知ったからといってどうにかなるわけではない、でも……)
知らなかった私とは違う、そのはずだ。日記に綴る狼狽が、ただ、揺れていた。少なくとも、そういう自分に目を瞑りたくは、なかった。
中学にいる間、私はとうとう穏やかならざる内情から完全に恢復することはできなかった。それでも、高校に上がってから「分裂」はなくなった。進学校の括りではあったが、気負いのない高校だった。私はゆっくりと、ひとりの私に結び合わされ、戻ってきた。最初からこうだったよというように。周囲の環境が変わったおかげというのもあるだろう、奥底の倨傲はあいかわらずだったが、剥き出しの神経のようだった自尊心の問題がいったんの沈静を見たのは幸いだった。だが、それゆえに、本来の望みであるところ、物語を書くことへの希求が泥を洗い流されたように明瞭に浮かび上がってきた。B5のノートに書き綴っていた物語はあるところまで辿り着くとふっつりと途切れ、先へ進めなかった。小学2年生の頃の国語の課題以来、私はついぞ物語を書き上げたことがないままだった。仕方なく、そこまで書いたものを幾度も、幾度も、手直しした。歳のさほど変わらないひとの受賞やデビューの記事が目に入るたびに、鋭い痛みを感じた。時が私を押し流すばかりの虚しさと焦りが、私の胸を焼いていた。何者でもない、という表現を、ずっと私は陳腐なものとして嫌っていた。いついかなる時も、何がなくとも、私はこの私として在るのだからと。けれど、そう、世間において認められるという意味では「何者でもない」のだった。
……そうして、冒頭に戻る。
鴨太郎さんに出会って、私は自分の脆い部分を知って、その限りにおいて大丈夫だと思っていた。でも違った。私は何も変わっていなかった。変わらなくていいところばかりが歪んで、ほんとうに変わるべきところはそのままの子供だ。思い至って、羞恥と絶望で目が眩んだ。
鴨太郎さんには、間に合わないものがたくさんあった。それでも、おのが心の呪いから解かれて他者の手を取れたなら、その魂を繋ぎ止めておける人だった。李徴にもまた、誰かが必要だった。袁傪がいてくれてよかったと、私は心から思う。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
それでも、才能と、才能への渇望と絶望だけは、誰にもどうにもできなかった。鴨太郎さんと李徴の違うところはこの点だった(これらの苦しみも、他者と関われたなら解かれるものだ、そうできないからますます彼の首を絞めるのだ、ともいえるのだけれど)。私にとって、最後で最大のピースを持っていたのが、李徴なのだった。
物語を読む無上の喜びを思う。小さな私と出逢い、目の前に広がった、幾つもの世界を。生きてゆくことの愛おしさうつくしさを手渡してくれた全て。あの温もりと輝きを心に抱いている限り、生きていけると思える、物語のことを。そういう物語を書きたかった。李徴にも、きっと、そんな幼い日があったのではないか、と私は想像していた。詩の詞があやなす景色に魅了され、憧れ、ただひたむきに愛した日々。新しい詩文集を胸ふくらませて誰もいない場所で開く少年の姿が見えるような気がした。その煌めきがいつか呪いのように自らを苛むなどと、夢にも思わなかっただろうに。……意地悪な見方をすれば、官吏登用の学問のさなかに偶々、詩作が自分に合っていることに気付いて欲が出た、とか、そういう可能性だって十分あり得るのだけれど。でも、きっかけが何であれ、あの人にとって詩がおのれを支えるだけのものになったこと、それが全てだと思う。
詩の、物語の、果てしなく広がる世界に焦がれた。そういうものを書きたかった。
たとえ名を成せなくても、書いたものが後の時代に長く長く残るなら。読み継がれていくのなら。言葉は死ぬことはない。
ああ、それでも名を成したいのもほんとうだ。多くの人たちの心に残りたい。認められたい。
私という人間がここに生きていた証が欲しい。このまま消えてしまいたくない。
望みの中で、何がいちばん烈しくその身を焼いたのだろう。あの人自身にも、はっきりとは答えられなかったのではないだろうか。きっとどれも本当だった。詩人として名を成すつもりでいた、と李徴は語る。詩家としての名を死後百年に遺そうとした、と地の文は語る。求めたのは何より詩人の名、なのだろうか。何をどう書くかという言葉そのものよりも、個人としての名誉、栄光に拘ったのか。けれどきっとそのことは、身の内から溢れてくる書きたいという衝動とも、結局は不可分だったのではないだろうか。李徴なら詩ではない道を選ぶこともできたかもしれない、でもそれは、できなかったのだ。どうしても詩でなければならなかった。詩そのものに、あの人はあの人の全てで(産を破り、心を狂わせて)執着していた。大切なものだった。
(そしてあの人は/私は、大切なものに対して臆病になる人間だ……)
(いっとう大切なものでさえなければ、怯えずにぶつかっていけたかもしれない。たとえ失敗に終わっても、自分の全てが無駄だったと感じることはない……)
読み返すほど、それがまざまざと痛いほど胸に迫ってきて、苦しかった。価値だの、意味だの、何がなくてもただ、ここに在るおのが生を抱き締められると思えるのは、物語のおかげだった。でも、物語を書けない自分を思うと、無駄な時間を生きてきたという恐怖がせりあがってきた。大切なものだからこそ、それに自分が見合わないことの恐怖に立ち竦む感覚を、私はよく知っていた。これもまた、山月記を読んで初めて、自分が何に怯えていたのかを知った、というのが正しいだろうか。「物語を書くこと」に全てを賭けて、それでも何も成せなかったら、と思うと⦅己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず……⦆、足下が砂粒になって崩れていくような心地がした。現実の私は何も成していないのに、心底求めるものへの努力のひとつもできないのに、なんと愚かな話だろうか。その焦りに常に駆られながら、そしてその怯えに絡めとられて、どんどん私は動けなくなっていった。趣味に終わらせたくなかった切実さにこそ、書けば書くほど自分の文章の……自分の空虚を思い知らされ、それが筆を鈍らせた。頭の中にあるものを文字にしてしまえば、たちまちその程度の低さに打ちのめされる。その繰り返しに、私は臆病になっていく。全てを賭ければ成し遂げられたかもしれない夢に縋って、一生を無為に過ごすのか、と思うと、堪らなかった。そのくせ、本屋や図書館で見かける創作テキストの類を手に取ることは躊躇った。そういうものに頼らず書きたい、そのくらいの力はあると、どうしても思ってしまうのだった。いつか書ける、いつか、と⦅……己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった⦆。趣味で楽しんでいる絵なら何の屈託もなく、積極的に教本を使うのに。描けば上手くなる。描かなければその先の発展など見込めない。絵にはあまりにたやすかったこと、わかりきったことだったのに、文章になると、途端に立ち往生してしまう。ほんとうに大切なものなら踏み込めるはず、なのだろうか。踏み込めなかったならそれまでのことで、大切なものではなかったと断じられるのだろうか。そういうことに、なってしまうのだろうか。私は、書くことに、物語に、あまりにも多くの己の理想と矜持を託し過ぎていて……それに縛られていることを、知っていた。それでも、それを知ってさえも、なおも縛られたがっていた。執着することに執着していた。あと一歩を踏み出せないでいる私には、この執着だけが支えだった。こんなに希っているのだから、せめてそれに値するなにかが得られてしかるべきではないか、とさえ思ってしまう自分が、いやだった。……このままでは絶対に虎だった。
才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。
たぶん私の中には薄っすらとした破滅願望があるのだ……ということに、このころ私は気付き始めていた。強く惹かれる物語の登場人物たちを通じて、疑似的にそういうものを叶えているのかもしれなかった。それでも、今生きている私は破滅するわけにはいかないのだと、よくわかっていた。引き戻す何かを、私は常に、知っていた。
こんなに恵まれているのに、何を不満に思うことがあるだろう、何を求めているのだろうという痛みもまた、常にあった。子供の駄々ではないか。執着せず、多くを望まず、日々を健やかに生きていける道も、きっとあるだろうに。私には、穏やかに守られる家があり、理解はさておきそれなりの仕方で大切にしてくれる両親があり、かけがえのない幼馴染や友人達がいた。それを、遠きものへの冀求に眩むがあまり、蔑ろにすることがあるかと思うと⦅……之が己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ⦆⦅飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけている樣な男だから、こんな獣に身を墮とすのだ……⦆、暗澹たるものが込み上げた(付け加えるなら『宝石の国』のフォスフォフィライトにも、同じ哀しみと居た堪れなさを感じたものだ)。現に私にはもう、損なってきたものがある。重々理解しながらも、満ち足りることができない自分のことを、知っていた。ままならなさを、知っていた。……あの人も、知っていただろうと、思う。
(どうすれば、私は私を失くさないでいられる。手綱を離さないでいられる。傍にいる人と、共に生きられる)
李徴、と時折心に呼ぶようになっていた。かつてなく私に近しい人。私そのもの。私。
(きっとこれからも、私は何度も、同じ問いに足を取られる。根本的に解決するということはない、これが、私の生まれ持った性情である限り……)
それでも、貴方がいる、と思えば、身体の芯に力がこもる気がした。まったく筋道の通らぬ勇気だが、いま私をここに留め置くことができるのは、まぎれもなく李徴だった。この先の人生を含めても、李徴を超えて「私」である存在には出会えないのだと、確信していた。ひとつの頂点がここにあった。
5月、現代文の中間テストは88点だった。大問①、山月記は満点で、論述には先生からのお褒めのコメントが付いている。私は会心の笑みを浮かべた。私が取らなくて誰が取るのだと気炎を吐いた甲斐がある。とはいえ、これはあくまで読み込んだ副産物のひとつなのだった。物語が入り用なのは、これからなのだとわかっている。私と生涯分かつことのできない、生まれ持ったものとの、その道行きに。
(物語との対話について② 『下・そして、それから』につづく)