2010年/小学3年生
そのころ、授業の一環で、蚕を育てることになった。ひとまとめに紙にくっついてケースに入っている芥子粒のような卵から、黒い糸くずのような幼虫が孵り、すくすくと成長していた。クラス全員に二、三匹ずつ株分けされる日、私は丁度祖父の忌引きで休んでいて、近所の友人が代わりに預かって持ち帰ってくれたのだった。六月、こうして私のもとに、三匹の蚕がやってきた。スーパーで買った野菜が入っていた透明な蓋付きパックが、彼らの家になった。家に昆虫用の飼育ケースはあったがそちらを選ばなかったのは、葉の取り換えや掃除のときに手間取りそうだったのと、バッタやコオロギのように動き回るスペースを必要としないだろうと考えたからだった。
ベージュの合板製のランドセルロッカーの上は、大小さまざまの飼育ケースやプラスチック容器でいっぱいだ。蚕たちは、月曜日から金曜日は学校で育て、週末は家に持ち帰ることになっていた。もしも夜の間に何かあったらどうしよう、と平日はついつい気を揉んでしまう。帰る前には入れられるだけの桑の葉を入れ、登校して無事を確認するたびにほっとした。前日に入れた葉が茎の筋を残してほとんど跡形もなくなり、フンと共にパックの底で大人しくしている姿を見るたび、不思議な気持ちになったものだ。……餌がなくなっても、蚕は自分から動かない、逃げていくことはない、と近藤ようこ『着物いろはがるた』で読んだ。じっとして、新しい葉を与えられるのをただ待つのだという。人間のためだけに、身体を何百年、何千年もかけて作り変えられてきたのだと。
桑の木は家の近くの道端にあって、学校の帰りに足繫く通っては、葉を摘ませてもらった。育ちきった葉は濃い緑で見るからに乾いて固そう、きっと食べにくいだろう、と思い、柔らかな若い葉を選ぶようにしていた。新しい葉を入れると、三匹ともそれはそれは待ち焦がれたように取り付き、一心不乱に食べ始めるのだった。小さな前足で葉をしっかりとしがみつくように抱え、上から下へ、一列食べきったらまた上から下へ、小さな頭で頷くような動作を繰り返す。耳を澄ますと、しゃりしゃりしゃりしゃり、と絶え間ない音が響いていた。食べながらも、どこかエビを思わせる形のお尻を持ち上げ、生クリームでも絞るように、花形の黒いフンをぐーっ、ぽろん、と押し出す。節ごとに動く短くて太い足。動作ひとつひとつが愛らしい。この小さな体で、ひたすら食べて、食べて、生きている。蚕たちはほんとうにかわいくて、私はしばしば、時が経つのを忘れて見入っていた。へたに人間がさわったらストレスか何かで病気になってしまうんじゃないか、と思いつつ(まことしやかに「蚕はさわったら死ぬ」と言う級友もいた)、我慢できなくて、指をのばしてそうっと撫でることもあった。すべすべして、ひんやりとした、紛れもない生き物の肌が、そこにあった。
白くて薄っすら黒い血管が走るもこもこした身体たちは、どんどん大きくなっていく。脱皮を見るたびに嬉しかった……そのうちの一匹の、茶色く縮んで干乾びた脱皮殻を、私は六年生になるまで筆箱にお守りのように入れていた……し、何齢幼虫なのか、というのはこまめに数えていた。約ひと月で、私が育てた蚕は学年で最もはやく、最も大きく成長した。おそらく誰よりも彼らを慈しんで育てることができたのかもしれない、と、今や指より太くまるまると肥えた三匹を見て、思った。誇ることでもないが、誇らしかった。¹
(でもこのまま、ずっと幼虫でいてくれてもいいのに)
繭になればその壁に隔てられて、手の届かないところへ行ってしまう。そうして、成虫になれば、残りの命は見えている……
あくる朝登校すると、いちばん大きな一匹が糸を吐き始めていた。誰よりも早く、この蚕は繭になる準備を整えていたのだ。何もなければ昂揚が先に立ったかもしれないが、この時私は狼狽していた。というのも、一緒に飼っていた蚕のもう一匹が、きょうだいの吐く糸に絡まってもがいていたから。桑の葉や容器と同じように糸を張られうっかりと繭の足場にされていて、このまま固められていけばこの子のほうは死んでしまうのは明らかだった。
(たいへんだ……!)
おろおろとハサミを持ち出した。糸を断って助けなければいけない。繭を作るのに失敗するような切り方は絶対にだめだ。もちろん、助けるべき蚕の身体を傷付けるのも。手が滑ってまっぷたつになる姿を一瞬思い描き、手が震える。実際にはそれは杞憂で、絡まる糸を外してやるのには手間取ったものの作業はすぐに済み、どちらにも大きな影響はなかったのだが……。何事もなかったかのように、一匹は糸を吐き続け、もう二匹は幼虫としての営みを続けた。話で聞いていたように、八の字に頭を振りながら、少しずつ、けれど膨大な量の糸が綾織りを成していく。その日のうちには真っ白なかたい繭が、パックの片隅に鎮座した。光を複雑にはじくとも吸い込むともみえるその白に触れると、かわいて均された細かい凹凸が伝わってきた。先生に報告すると、次に続くであろう幼虫たちを予想したのだろう、紙箱にボール紙で仕切った三十ほどの蚕室が準備されたが、しばらくは一匹目と、その後に繭になった私の二匹目の貸し切り状態だった。
三匹目のことも覚えている。家に持ち帰っている間にこの子は繭を作った。あれは夕方のことだったと思う、いつも容器を置いている八畳の客間はすでに薄暗かった。こちらもタイミングが分かってきて、そろそろだな、と思い上辺を切り取った空のティッシュ箱を用意して移し替えたのだけれど、三匹目はこの切り取った縁に這い上がってぐるぐると歩き回るばかり。このままどこかに行って見失ってしまいそうで、焦った。今から思うと、箱は大きすぎたのかもしれない。蚕室はもっと小さいものだから。結局、元の容器に戻すと、しばらくして糸を吐き始めた。
三匹目の繭づくりと、一匹目の羽化、どちらが早かっただろう。いつも、劇的な変化を知るのは朝だった。羽化した姿が繭を破り、その天辺にとまっているのを見たとき、息を飲んだ。……なんと美しいのだろう、と思った。黒い大きな目、櫛のような焦げ茶の触覚、柔らかな毛で覆われたクリーム色のふっくらした身体。翅があっても飛ぶことはない。私がそっと触れても、逃げなかった。蚕はどうやら雄のようだった。残った繭のほうを持ち上げて振ると、カサ、と中で蛹の抜け殻が音をたてた。
蚕は成虫になれば、もう一切何も口にしない。あれほど桑をもりもりと元気に食べていたのに。そして、次に羽化した繭もまた、雄だった。あまりにも早く成虫になった彼らは、とうとう他の雌と番う機会なく、それどころか存在すら知らないで、死んでいった。(一匹目はそれなりに長く生きた、と記憶している。少なくとも一度連れて帰って母に見せるだけの余裕は、あった)またもう一匹は、とうとう羽化しなかった。
多くの栄養を与えたことが結果として命を縮め、周囲の営みとずれさせてしまった、そう思えてならなかった。もしも、もっと手間暇かけなければ、成長を遅くできただろうか。もっと多くの他の成虫と出会えるように、できなかっただろうか。詮無いことだと思っても、胸がざらついた。一匹目の亡骸をてのひらに乗せて、私は茫洋と思い巡らした。
「人に操られるようになった獣は、哀れだわ。野にあれば、生も死も己のものであったろうに。人に囲われたときから、どんどん弱くなっていくのを目の当たりにするのは、つらかった……」
上橋菜穂子『獣の奏者Ⅰ 闘蛇編』p27
(人間がいなければ、生きられない虫。……人間のために、長い時間をかけて作り変えられて、飼われてきた虫)
いまさらのように、そのことが胸に迫ってきた。この子は、最初から野生を閉ざされた生であることを選べなかったし、それを知ることもなかった。長い長い世代の果てに、ただそのように蚕の身に生まれ、一生を終えた。そこに意味などはなく、人の秤で何か言うことなど、きっとできない。きょうだいが自分の糸に絡まっていても、まるで気付かないで……あるいは気付いていたとしても意にも介さず……繭を作ることを一心不乱に続けていた姿が脳裏をよぎった。それはただ、それだけの営みで、情は介在しなかったのだ、ということを。短い命だの、儚いだの、意味を求めて感傷に惑うのは、その外側にいる私だけだった。私に育てられた一生は、せめてこうして生まれたこの子にとって、最善だっただろうか。² とりとめもないことを考えながら私は庭の一角をがつがつと浅く掘り、蚕を埋葬した。
学校のロッカーの上に並ぶ飼育ケースには、次々と羽化していく蚕の成虫たちが蓋に取りついたまま、飛べない翅をゆるゆると動かし、あるいは透明な壁を這っていた。その子らを見るまで自信がなかったけれど、やはり私が育てたのは雄だったのだ、と振り返って確信した。蚕の成虫はもともとずんぐりとした体つきなのだが、雌はどの個体を見ても雄の比ではなく、アコーディオン状の腹部は今にもはち切れんばかりに膨らみ、継ぎ目のような黄色い筋が裂けそうに浮き出ている。卵が詰まっているのだ。でも、その無数の命が生まれることはない。ここにいる蚕たちの生はすべて、ここで閉じる。
ふいに寂しくなった。どうにも居ても立ってもいられなくなって、私は蚕を埋めた場所を掘り返すことにした。ちゃんと目に焼き付けたから大丈夫、と思っていたのに。あれから十日ほどが経っていただろうか。どんな姿になっていてもいいから、もういちど会いたかった。脊椎動物ならいざ知らず、昆虫ならそんなに酷い有様にはならないだろう。白いからきっと、すぐにわかるはず。
案に相違して、掘っても掘っても、蚕は出てこなかった。触角も、頭も、腹も、翅も、なにもなかった。七月の日射しに照らされた乾いた土と砂とが、穴の底に広がっていた。分解されて土に還ったのだ……と、ぼんやりと思った。こんなにも、はやいのか。
楽しかったことと、微かな痛み……心から彼らを慈しんだ短い日々を、そして何を感じていたのかを、そのようにして、私は憶えている。
夏休みが、目前に迫っていた。
補遺
雨の日に学校の花壇に幼虫を投げ棄てた男子や、虫が苦手すぎて世話が出来ず放置し死なせてしまった女子もいた。後者の、葉の上で黒ずんだ塊と化した姿と、先生の叱責を覚えているし、それくらいなら私が引き取って育てたのに、という微かな後悔が、残っている。
「最善だっただろうか」という言い回しを選んだが、当時の感情としては「幸福だっただろうか」がより近い。ただ、今から思うと「幸福」は人間の秤でありすぎるので(蚕に「幸福」という主観的な観念があるのかどうか、精査なく使いたくない、と引っ掛かってしまう)、客観としての「最善」をここでは使う。