Pluribus、iPhone、Nirvana

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公開:2026/3/19

去年Apple TV+で配信されたPluribusは私たちが生きる現代とは少し異なる、しかし地続きの別の現実を舞台にしたSFドラマだ。

ある日突然、世界が劇的な変貌を遂げるが、それは核戦争やエイリアンの侵略といった派手な破滅ではなくもっと静かで精神的な変容だ。人類のほとんどがある種の集合意識のようなものに飲み込まれ、人々は互いに争うことをやめ、深い共感と平和の中に身を置くようになる。悩みや孤独、個人のエゴが消え去り、世界は極めて効率的で親切な場所に変わった。

主人公のキャロルは、なぜかこの同化に馴染めない(あるいは拒絶する)数少ない人間の一人だ。周囲がニコニコと手を取り合い、完璧な調和の中で生きている中で彼女だけが昔のままの不機嫌で、孤独で、エゴに満ちた人間として取り残されてしまう。そんな彼女は、その完璧で幸福な世界に対して猛烈な違和感と怒りを感じ、独りで抗い続けるのだ。

私はこのキャロルに共感しかなかった。小さい頃から集団行動が苦手で、小学校の入学早々不登校を決めたり、高校では謎の規則(染髪、髪を結ぶ、スカートの丈)というルールに抗い自分のせいで学年集会が開かれ全員の前で謝罪をしないといけない事態までなったこともあったが、それでも自分が腑に落ちないルールには徹底して無視を決め込んだ。

それと同時にキャロルの孤独も理解できるのだ。本当に誰とも違う領域に踏み込むと、理解者がいなくなり深い孤独に襲われる。結局のところ人間にとって何者かの一部であることは一種の精神的な安全保障である。自分でゼロから思考し、判断し、責任を負うという個の重圧から解放してくれる。周りと同じ色に染まってしまえば、少なくともはみ出し者として攻撃される恐怖からは逃れられるからだ。

また、私たちが文化やトレンドと呼んでいるもののほとんどは、帰属意識という強力なエネルギーから生まれている。一人で勝手にやっていることはただの癖や奇行で終わるが、それが文化になるためには「自分もその一部になりたい」、「これを共有している仲間だ」という帰属意識が不可欠だからだ。トレンドの本質は、個人の小さなこだわりが帰属意識を通じて集団のアイデンティティに昇華されるプロセスとも言える。しかし、進化論や革命の歴史を見ても、変化は常に帰属集団から少し外れた変異体や異物から始まる。


iPhone(あるいはスティーブ・ジョブズの成し遂げたこと)は、まさに個人の極めて偏執的な好きや経験が、大衆文化を飲み込んで新しいスタンダードを創り出した究極の例だ。

iPhoneも、要素分解すれば既にあるものの塊だった。

  • タッチパネル技術

  • 携帯電話

  • インターネット

  • iPod

またジョブズ自身のカリグラフィーへの傾倒や禅の思想、洗練された家具への執着といった一見テクノロジーとは無関係な個人的な体験がこれらの既存要素をこれまでにない形で繋がっている。 ジョブズを動かしていたのは、今の携帯は使いにくい、ボタンが多すぎて美しくないという、極めて個人的で身体的な違和感だった。個の経験があまりに深く切実で徹底的に掘り下げられたとき、それは大衆を超えて、新たな世界のルールを書き換える力を持つ。


このように替えの効かない個であればあるほど、ビジネスとしては高価なブランドとして扱いやすくなるが、それが芸術の世界であればジレンマとなって苦しめられる要因ともなる。アーティストは自分だけの表現(個)を世に出すが、それは本質的に誰かに届けたい、共感されたいという欲求に基づいている。しかしヒットした瞬間に、それは大衆文化(集合意識)の一部になってしまうという皮肉がある。

ロックの歴史を変えたとも言われる大人気バンドNirvanaのアルバム「Nevermind」は商業的に大成功を収めた。彼らの歌を聴いたことない人たちでもこのアルバムのジャケットやNirvanaロゴのTシャツを目にすることは多いのではないだろうか。

しかしNirvanaのフロントマンであるカート・コバーンにとってのロックは、排他的で、不器用で、マジョリティに馴染めない個のための救済だった。彼が既存のシステム(メジャーなロック、商業主義、マジョリティの価値観)を徹底的に否定するアンチの立場から出発したが、彼がその個の痛みをあまりに純粋に叫んだために、大人気となる皮肉な現象が起きてしまった。彼が提示した独自性があまりに魅力的で替えが効かなかったために、全人類がそれを欲しがり結果として新しいトレンド(同化)を生み出したのだ。


このように周りと違うことをしたいと尖りきったジョブズやカートが、結果として世界中の人間に同じ服を着せ、同じ歌を歌わせ、同じスマホを持たせてしまったのは、最大の皮肉であり、避けられない重力のようなものなのかもしれない。結局、私たちは古い集団(伝統や常識)から逃げ出した先に、新しくて魅力的な個(教祖やカリスマ)が作った別の集団に飛び込んでいるだけなのかもしれない。

そう思うとドラマPluribusのハイブマインドの起点も実は誰か一人のアイデアから生まれたのではなかろうかと考えてしまう。(これが本当だったら最大のネタバレとなるな)

しかし個人が生きていく中でシステム(集団)の中にいることは避けられない。けれど、そのシステムを作るのも、壊すのも、その狭間で揺れるのも、すべて私たち個のグラデーションだ。逆にどれほど同化しているように見える大衆でも、心の奥底には誰にも侵されない個の微かな色が残っているはずだ。そんなシステムと個、その狭間で揺れ動きながら私だけのグラデーションを描き続けていことが不自由で、最高に自由な生き方なのかもしれない。