最近BoJack Horsemanを観終わった。生き別れの兄弟の大好きなドラマだったので観てみたが、これを全て観終わるにはかなりの精神的エネルギーを消費した。BoJack Horsemanはかつての栄光にすがり、再起を夢見ながら自堕落に生きる元スター、ボージャックの話で、彼は救いようのないクズだ。 友人や恋人を自分の虚栄心を満たすための道具として扱い、孤独を恐れるあまり彼らの夢を平気で踏みにじってでも自分に縛り付けようとする。自己愛が強い完璧主義者のくせに、その根底には愛されなかった幼少期の傷と剥き出しの自己嫌悪が渦巻いている。アルコールとドラッグに逃げ、周囲を裏切り続ける彼の姿はハリウッドという怪物的なシステムが生み出した悲劇の産物かもしれない。しかし、そんな彼の立ち振る舞いを見て、私たちはただ突き放すことができないのだ。自分の中に潜む身勝手さ、承認欲求、そして「自分ならもっとうまくやれる」と言い切れない弱さ。ボージャックが繰り返す過ちは、鏡のようにこちらの内面を射抜いてくる。呆れ果てながらも、気づけば彼の一挙手一投足に目を奪われているのは、そこに自分自身の醜い真実を見出してしまうからだろう。
ここからはネタバレ含むのでこれから観る予定の方は読まないことをお勧めします。
この物語で重要になってくるのはかつての子役サラ・リンとのエピソードである。大人になり、ハリウッドの重圧でボロボロになった彼女と再会したボージャックだが、せっかく断酒していた彼女を再び依存の沼へ引きずり込み、最期は彼の車の中にあったヘロインが彼女の命を奪う。この「たまたまそこにあった」という皮肉な死が取り返しのつかない罪として彼にのしかかる。その後彼はリハビリを経て更生を試みるが世間は許さない。記者に真相を暴かれ、キャンセルカルチャーの荒波に放り出され、社会的地位も友人も失い、死の淵を彷徨った末に刑務所へと行き着く。それでも地獄のような泥沼の中でもがき、不器用ながらも変わろうとする彼の姿を、私たちは「絶対的な悪」として切り捨てられるだろうか。現代は、表現者に人格者であることを求める。それは有名人に限らず、SNSに生きる私たち一般人も同じだ。一度の過ちが拡散されれば、仕事も信用も、お金と同じくらい大切な評判も一瞬でゼロになる。たった一度のミスも許されない、潔癖で不寛容な時代だ。悪事を働いた者が簡単に社会に戻ることを良しとしない心理は理解できる。しかし誰かの転落や苦しみをエンタメとして消費し、正義という名の石を投げるだけの社会にも強い違和感を覚えてしまう。ボージャックが刑務所の壁の中で、本当に少しずつ自分を立て直していく姿を観ながら、そのマシな人間になろうとする意志さえも否定されるべきなのだろうか。才能と人格は別物だと言い切ることはできないが、せめてやり直そうとする権利くらいはこの残酷な世界に残っていてもいいのではないか。そんなことを彼の背中を見ながら考えずにはいられなかった。
BoJack Horsemanを観ている間、Red Hot Chili Peppersのジョン・フルシアンテにハマっていた。彼の弾く音は「枯れたギター」と評されるくらい、そこには言葉にならないほどの哀愁と感情が乗り、聴く者の心を激しく揺さぶる。しかしその美しい音色の裏側に張り付いているのは、彼のあまりに壮絶な生き様そのものだ。
18歳という若さで世界的バンドに加入し、いきなりスターダムの頂点へ。しかしその重圧に耐えかねた彼は、日本公演中に突如として姿を消しバンドを脱退した。20代の彼は、重度のドラッグとアルコール依存の闇の中にいた。当時のインタビュー映像に映る彼は見る影もなく痩せ細り、発言は支離滅裂。まともな思考などとうに手放してしまったかのような姿に観ているこちらが言葉を失うほどだ。そんな彼には、リヴァー・フェニックスという親友がいた。リヴァーもまた中毒の渦中にあり、ある夜二人がいたクラブでリヴァーは命を落とした。ジョンが手渡した薬物が原因だという説もあり、当時のインタビューで放った「I don't care(どうだっていい)」という冷徹な言葉は今も消えない棘として残っている。だが、自分自身さえ壊れ果てていた当時の彼に、果たして真っ当な人間としての回答を求めることなどできたのだろうか。その後、ジョンは奇跡的に更生し、何度も脱退と復帰を繰り返しながら、今またバンドのステージに立っている。世間には友人を死なせておいてなぜ平気な顔で活動できるのかと指をさす者もいる。実際、彼は完璧な人間などではない。ライブ中に子供を叱り飛ばすような未熟な一面もある。(これは流石に反省しライブ後にバックステージに呼んでギターを弾かせてあげたらしい)それでも一度は現代の3大ギタリストとまで称された彼の音楽的才能はあまりにも圧倒的だ。ここであの問いに立ち返ってしまう。私たちは彼に音楽の才能だけでなく人格者であることまで求めるべきなのだろうか。もし自分が彼と同じ年齢で、同じプレッシャーと孤独のどん底に突き落とされた時、一度も道を踏み外さないと言い切れるだろうか。彼のギターが奏でるあの泣きたくなるような旋律は、犯した過ちも、失った友も、消えない罪悪感も、すべてを飲み込んで鳴っているような気がするのだ。ボージャックが泥沼の中でもがき続けたように、ジョンもまた消せない過去を背負いながら、ただ音を出すことでしか自分を繋ぎ止められないのかもしれない。そんな彼を悪の一言で断罪してしまうには、彼の鳴らす音はあまりにも切実すぎるのだ。
あの日ジョンとリヴァーの間に何が起きたのか。ネットに溢れる言説はどこまでも断片的で、真実は永遠に二人の間にしか存在しない。しかしもし語られていることが事実なのだとしたら、彼がしたことは決して許されることではないだろう。ここでどうしても、ボージャックとサラ・リンのあの夜を思い出してしまう。 彼らの関係は決して美しい友情などではなかった。互いに傷を舐め合い、破滅へと足を踏み入れる共依存。それでも、あの絶望的な瞬間において、彼らにはお互いしかいなかったのもまた、残酷な事実なのだと思う。
私たちは成功を収めた表現者に対して、無意識のうちに完璧な人格を求めてしまう。しかし、皮肉なもので彼らが放つ圧倒的な魅力や、胸を締め付ける音楽の多くは、正気ではいられないほどの過敏さや、埋めようのない心の欠落から生まれている。 音楽的な天才であることと、清廉潔白な人格者であること。その両立は若くして巨大なプレッシャーに晒された魂にとっては、不可能に近い要求なのかもしれない。ボージャックがまともな人間になろうとしてもがいたように、ジョンもまた、溢れ出す音楽的才能とあまりに壊れやすい自分自身とのギャップに押し潰されていたのではないだろうか。
当時の彼を糾弾することは、結局のところ私たち観客側が理解しやすい綺麗な物語を欲しがっているだけなのかもしれない。 ボージャックとサラ・リンの結末がそうであったように、現実はもっと泥臭く、整理もつかず、救いようのないものだ。正義や悪といった言葉では割り切れない、暗く深い淵のような真実がそこにはただ横たわっているだけなのだ。
一度の過ちでその人のすべてを抹消してしまうキャンセルカルチャーは、あまりに暴力的だ。しかし誰かを深く傷つけた人が、何事もなかったかのように平然と戻ってくる光景に違和感を覚えるのも人間として当然の倫理観だと思う。では、私たちはどう振る舞えばいいのだろうか。
BoJack Horsemanで描いていたのは許されることと責任をとることは別物だという現実であった。私たちがすべきなのは、その人を神格化して全肯定することではなく、素晴らしい音楽を作る才能と人間としての未熟さ・過ちを切り離さず両方を直視し続けることなのかもしれない。キャンセルカルチャーの最大の問題は、議論を終わらせてしまうことだと思う。 「あいつは悪だから消す」で終わらせず、なぜあのような悲劇が起きたのか、当時の音楽業界やドラッグカルチャーにどんな歪みがあったのか。ジョンとリヴァーの間に何があったのかを考え続けること。 そうやって考え続けること自体が短絡的なキャンセルに対する一つの抵抗であり、亡くなったリヴァーやサラ・リンのような存在を忘れないための方法でもあるのだと思います。
ジョンが今もステージに立ち続けていることはある意味で生き残った者の責任を音楽で果たし続けているようにも見える。「どうしても許せない部分」と「どうしても惹かれる才能」というその矛盾を抱えたままファンでい続けることは苦しいかもしれないが、とても人間的な愛の形ではないだろうか。完璧な人間などこの世にはいないのだから。