身内に不幸事があり、ここ数日はメンタルも体調もやられていた。ここに書けるくらいにはだいぶ回復しつつある。
最後に映画館で観たのはセンチメンタル・バリューだったのもあり、家族に対してはどんなことがあってもサポートしてあげるんだと躍起になっていた。だから知らせを聞いた時も自分が1番に駆けつけたし、これまで迷惑も掛けた分恩返しも含めて助けるんだと強い気持ちでいた。でも現実はそれ以上に大変で難しい選択に迫られ、共感しすぎてしまう私にとってそれは自分の魂を削り取るような作業だった。とんでもなく使えない野郎だった。
私はよく悲しみの多いコンテンツに心を奪われることが多い。なぜだかわからない、異人たち、アフターサン、センチメンタル・バリュー、悲しみと共にある愛に深く共感し、美しさすら感じる。
でも実際はどうだろうか。人生とは残酷なものだ。悲しみのコンテンツのように美しくはない。現実はもっと無機質で、残酷で、事務的だ。悲しみに浸る余裕なんてものはなく、感情に溺れることが許されるのはある意味で恵まれているのではないかとすら思う。現実を受け入れる精神性、金銭的・物理的・倫理的問題、様々な辛い決断を迫られるのだ。そんな時に求められるのは冷静な判断で自分と他人の境界線をつけること。私は自分の大切な人が辛い状況にある時、自分が肩代わりできないかと全力で全てを担おうとする。でも自分ではどうしてもできないことやコントロールできないことがあり、ましてや自分の人生も生きていかなければいけない。そんな時に全てを背負ってあげることができない自分に嫌気が差すと同時にそれを受け入れて前に進まなきゃいけない現実を突きつけられるのだ。
私はそれでも幸せになっていいのだろうか?そんなことまで思ってしまう。そしてそれでも私の人生は続いていくのだ。ある日突然当たり前だと思ってた日常がそうじゃなくなっていく感覚、これを今後もまた味わうことになるのだろう。何度経験しても一生経験したくない瞬間だ。だからこそ今あるものを当たり前だと思わずに生き続けなきゃいけない。