神奈川県 鎌倉市 扇ガ谷、「鎌倉駅徒歩8分、空室あり」 越智月子 幻冬舎

日々
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記念すべき、引っ越し先での図書館貸し出しデビュー本。書架の間を歩いていて目に留まった一冊で、タイトルにも著者にも見覚えはなかった。著者の他作品にも見覚えはなかったけど、著者名が素敵ですね。ペンネームかな、「おちつきこ」さん。自他ともに認める「落ち着いた人」なのか、「もう少し落ち着けよ」との願いが込められているのか、気になるところです。

タイトルを見て、個人的に「食べ物セラピー本」と読んでいる類の本かなと思い手に取った。「食べ物セラピー本」の特徴は、隠れ家的で居心地のよいカフェもしくは食堂、草木や花、おいしいごはん、お菓子、コーヒー、穏やかだが訳ありの店主、そこを訪れる人生に迷った/疲れた人、そして群像劇。舞台が食べ物屋ではない場合もあるが、おいしいごはんかお菓子かコーヒーの描写は必須。店主と客をつなぐアイテムであり、読者がその場面をより鮮明に思い浮かべる助けになる小道具でもある。今作は小説だが、漫画にも「食べ物セラピー本」はあるよ。私の勝手な創作用語ですが。

最大の特徴は、店を訪れた「人生に迷った/疲れた人」の背景や抱えている問題が語られ、迷いや疲れが解きほぐされていく過程を描く点。この本は表紙にかわいい紺ののれんの絵があるし、ぱらぱらめくってみたところ巻末にカレーのレシピが載っている。また、目次にある章立てには登場人物の名前らしき記載がある。登場人物ごとのエピソードが用意されている証拠であり、ほぼ確実に「食べ物セラピー本」である。疲れた脳と心にはこれが効くんだよな、と借りることにする。

読んでみると、舞台は鎌倉にあるおしゃれな洋館。家主の一人暮らしで、ナチュラルガーデンとテラス、そして家主の作るおいしいコーヒーがある。冒頭時点では繁盛しないカフェだが、家主の友人が転がり込んできたことをきっかけに、空き部屋を利用したシェアハウスにもなる。シェアハウスを舞台に群像劇が始まらないわけがなく、やはりまぎれもない「食べ物セラピー本」である。

印象に残ったのは散歩の描写。鎌倉に土地勘のある人なら、頭の中ではっきりと景色が思い浮かぶのだろう。読んでいると不思議と疲労を感じるというか、歩く(もしくは自転車をこぐ)スピードに合わせて景色が変わっていく実感が伴う。登場人物と違い、こちらは文字を追っているだけなのだが、よく歩いたなあと振り返って歩数を確認したくなる。

それと、昭和生まれ限定のシェアハウスということで、予想よりも高い登場人物たちの年齢層。家主が46歳というところでまずけっこうなギャップを感じた。今までに読んできた「食べ物セラピー本」は、群像劇だけに登場人物の年齢の幅が広いものが多く、学生や若者が出てこないことはまれだった。単に近い年齢の登場人物がいる本を選んでいたのかもしれないが。恋愛や仕事の悩みがほとんど登場しなかったのは新鮮だった。だが、老いに伴う焦燥や寂寥は、若輩だが私も最近、実感はなくとも想像はする。「これまでの人生数十年を振り返る」ってすごいことだなと思う。それほど人生の年輪が厚くなった時、私はどうなっているのだろう。

振り返る人生の厚みがある分、それぞれの章で語られる感情の蓄積が大きい。登場人物それぞれのエピソードは、格安家賃でまかないつきのしゃれた洋館に住み、長時間労働もなく、何かにつけてはおいしいコーヒーを飲んでいる日々のファンタジー加減とは打って変わってヘビーだった。ヘビーよりも濃いというのか、それだけの年数耐えていればそれはつらいだろう、と思うような。自分の年齢と40代後半というと、数字上はそこまで離れていないようにも感じるが、やはり親を見送ったかそうでないかというのは大きな壁のような気がする。

感想がなんとなく他人事のようになってしまうのは仕方がないと思う。まだ身に染みる種類のつらさではなかったから。この本を20年後に読んだら、きっともっと自分事として読んでしまうんだろう。

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冷たい雨があなたを濡らしたら、あたしを思い出して。どこにいても、どんなかたちになっても香良が淋しくならないように見守っているから。